献血

400ml献血2回で限定のトミカがもらえるキャンペーンをやっているとのことで、約1年ぶりに献血へ。

ふと気になって過去の献血記録を見てみたところ、今回で15回目でした。これ以外にアメリカでも2回行ったと思います。

1回目の日付は2005年9月23日でした。施設名は、「移動献血会場」の表示までで、詳細は残っていないのですが、おそらく駒場に献血バスが来ていて、友達に誘われて行ってみた、とかだったのではないかと思います。

先日、アメリカの大学の先生に、「アメリカは日本にくらべて、大卒かどうかによる政治意識・社会意識の違いがはるかに大きい。それは大学が様々な背景の人々に触れる重要な機会となっているから」というようなお話を伺ったのですが、日本の大学も何だかんだ言われても色々な経験の機会の場になっているよなあ、と約20年前の献血記録を見ながら思ったのでした。少なくとも自分の場合は、その時を逃していたら今も一度も献血をしていなかった可能性もあるので。

木村幹(2025)『国立大学教授のお仕事 ——とある部局長のホンネ』

 

現在の国立大学の教員の仕事という面では、それほど新規な情報はなく、どちらかというと「あるある」という感じだったのですが、長年勤めている先生ということで、法人化以前の状況については自分が知らないことが多く面白かったです。

「割愛願い」というものがなぜわざわざ用意されるのか以前に疑問に思ったことがあったのですが、法人化以前における国立大学間の異動をスムーズにさせる仕組みの名残ということでした。当時の制度では割愛願いが認められないと、いったん国家公務員を辞め、またすぐに国家公務員になるという手続きを取る必要があり、そうすると給与や退職員の計算に大きな影響が出るということでした。

他には、どういうスケジュールでそれぞれの先生が仕事をしているかということを詳しく伺う機会は意外とないので、1週間のスケジュール例の辺りは面白く読めました。著者の先生が研究科長としての業務で、心労により病気休暇を取ることになったという記述は非常にリアルに感じられました。やはりとてつもなく負担の大きい仕事なのだなと。

学生との接し方やネットワーク形成に関する著者の先生の考えや経験についての記述も勉強になったのですが、自分は役割が与えられないとあまり積極的に人と関わろうとはしないタイプなので、なかなか自分にはできそうにないことだなあとか、そもそもこれを教員がやる状況になっているのはよいことなのか、などと思いつつ読んでいました。

20250622

 

運転免許の更新に運転免許センターへ。日曜ということもあり、仙台駅からのバスはタイミングが合わなかったので、泉中央駅からのバスで行きました。

 

仙台駅周辺や一番町の辺りは、未だに自分にとって「街」という感覚で、泉中央の辺りまで来ると、「地元」という感じがします。

 

[参考]

https://rankingoo.net/articles/local/02232a#index_id6


マイナ免許証を申請するかどうか迷っていたのですが、使っているカーシェアのサービスがマイナ免許証に対応していないことと、「マイナ免許証の発行まで2時間くらいかかる可能性がある」という掲示があり、従来型の運転免許証のみの発行を選択しました。


帰りにセルバのスタバに入ろうかと思ったのですが、本日ホーム試合があるらしいベガルタ仙台のサポーターが列を作っていたので(ちょうど改修が終わって初の試合だったようです)、セルバテラスのプロントに寄ってから帰りました。

 

アリオの跡地はどうなるかまだ決まらないのですかね。さくら野やフォーラスの進展も聞かないので、色々と気になるところです。

https://news.ntv.co.jp/n/mmt/category/society/mm97187b412f0c41819b53ad3a6b1acb92

 

M.アルヴェッソン,J.サンドバーグ(2013=2023)『面白くて刺激的な論文のためのリサーチ・クエスチョンの作り方と育て方――論文刊行ゲームを超えて』

 

買ったのは結構前なのですが、ダラダラと読んでいたらいつの間にか第2版の訳も出ていました。原書タイトルは Constructing Research Questions: Doing Interesting Research となっているので、かなりの意訳というか、訳者のこだわりが感じられます。関連して、訳者の佐藤郁哉先生が少し前にちくま新書から出していた本の方も読みましたが、そちらも面白かったです。

 

本来の学術研究の場合には、本来,広い範囲の文献を渉猟し,かつ広い範囲のアイデアに通じるとともに,それらに対する関心を持つことが必要になる。それとは対象的に,Barnett(2010)が痛烈に指摘しているように,現在では,研究室にいるところを同僚に見られた時に本を読んでいる姿を見られると,恥ずかしくて罪を犯した気分になってしまうことすらある。つまり,本などを読むのではなく論文を書くことが想定されているのである。同じように,Gabrielは,彼の同僚の大多数が「ほとんどの場合,論文はアブストラクトの部分に目を通すだけにして,詳細な議論を注意深く理解しようとするためにはそれほど時間を費やしてはいない」と指摘している。「その点からすれば,どうやら多くの者にとっては,(査読評を書くという目的のために論文を読み込むという明らかな例外を除けば)読むことは書くことに比べてそれほど重要ではなくなったようなのである」(2010: 762)。

[187] 

 

上記は「ギャップ・スポッティング方式ではなく、問題化の方法によりリサーチ・クエスチョンを定式化すべき」という本書の中心的な主張からは少し外れた、ギャップ・スポッティング方式が広く浸透している制度的要因を考察している箇所ですが、非常に首肯できるものでした。

 

竹内洋先生による『学問の下流化』という本のあとがきにおいて、「読書時間が欲しかったから大学教師になったが、今度は専門論文や専門書を読まなければいけなくなり、30代・40代は学会誌などに専門論文を書きながら、『怏々として楽しまず』だった」というような記述があり、この辺りのジレンマはある程度は誰でも抱えているのかなと感じました。社会科学系の学問の国際化や、国立大学法人化以降の「選択と集中」の流れの中で、今後さらに強まっていくようにも思います。

20250413

 

自分も論文審査や選抜試験、採用選考などと名前の付くものにそれなりに関わるようになってきたのですが、なかなか気が重く、時間をかけすぎてしまっているのではないかと思うことがあります。
 
評価のやり方自体は自分の中で基準はある程度できてくるのですが、相手の人生をある程度左右するかもしれないと考えると、最終的な判断にはもっと慎重になった方がよいのではないかと考えてしまうわけですね。
 
相手にダメージを与える行為は、自分にも相応にダメージが返ってくるということでしょうか。
 

ゆでたまご『キン肉マン』(58)p.170
 
この辺りは他の皆さんはどのように折り合いをつけているのでしょうか。まあ、あまり気にしないという方もいそうですが。
 
なるべく慈悲の心で臨みたいところですが、シルバーマンの目指した境地は遠そうです。
 

ゆでたまご『キン肉マン』(59)p.23

朝日新聞「国立大の悲鳴」取材班(2024)『限界の国立大学』

 

 

  • 一度は聞いたことがある「悲鳴」がほとんどでしたが、教職員・学長に対する意見調査の結果を示しながら丹念に取材がなされていて、色々と考えが整理されました。今年あった東大の授業料値上げについての動きも、やはり法人化してからの一連の流れの中で捉えなければいけないことですね。
  • 法人化前の時点では、当時の学長や役員の中では積極的に法人化を推進する姿勢があって、国から一方的に押し付けられたものだという理解は誤りだという記述は、あまりよく知らなかった点でした。
  • しかし当初の目論見通りにはいかず、結果として運営費交付金の継続的な減額による研究力の低下などの悪影響が現在強く認識されているようです。また、学長と教職員の間に意見の隔たりが少なからずあることを示す一連の調査結果でした。
  • ただし、法人化前は寄付金や改組などの制約が相当に強く、運営費交付金の問題とそこは分けて考えるべきだというのは、なるほどという感じです。法人化前は「大学の自治」が悪い方向で働くことも多かったという意見もたしかにその通りで、オープンキャンパスなど1つ取ってみても、大学がより社会に開かれてきた面はあるかと思います。
  • また、国立大学協会の永田会長への取材が行われており、運営費交付金の減額よりもさらに悪い政策として、共通指標による傾斜配分枠が挙げられていました。この点は国際卓越研究大学制度による今後の変化を考える上でも重要な指摘であるように思われます。

京都

出張で京都へ。
 
京都駅から離れた若干アクセスの悪いところに用務先があり、地下鉄とバスを乗り継ぐ形になったのですが、その途中で小中学校の同級生が亡くなった事件の現場近くを通ったことに気づきました。
 
 
2006年の末に京都へ旅行に行ったのですが、東京への帰りの夜行バスを京都駅前のカフェで待っている時に、ばったり彼と再会したということがありました。そのすぐ後にこの事件が起きたのでとにかく大きな衝撃を受けたのですが、一方でまったく実感ができず、少しして地元でお線香をあげに行った時に一気に悲しみが込み上げてきたことを思い出します。
 
あれからもうすぐ18年ということで、もうそんなに時が流れたのかと感じる一方で、時間が止まってしまった友人のことを久々に思い出して気が塞いでいます。
 
少し調べてみたところ、大学の同級生の方が彼のことを忘れないように漫画で描いてくださっているようです。