Manski(2011)「遺伝子、眼鏡、社会政策」

Manski, Charles F. 2011. “Genes, Eyeglasses, and Social Policy.” Journal of Economic Perspectives 25(4): 83-94.

 

  • 以前に研究会用にまとめたものです。

 

 遺伝率(heritability)に関する研究を2つのタイプに分け、政策分析に対して持つ意味を議論する。観察されたアウトカムを遺伝的要素と環境的要素に分解しようとする研究は社会政策に役立たないものの、遺伝子を共変量(covariates)として用いる研究は有用な可能性がある。

 

遺伝率

 遺伝率に関するフォーマルな研究の起源は、19世紀イギリスの科学者Francis Galtonに遡る。Galtonは「生まれ」(nature)と「育ち」(nurture)を区別しようとした、おそらくはじめての人物である。その後1960・70年代になって、IQの遺伝率を社会政策と結びつけ、IQはもっぱら遺伝的であるために政策によって不平等を緩和することはできないと述べる社会科学者たちの主張が論争となった。
 Goldberger(1979)は遺伝率に関する研究に対する説得力のある批判を展開するにあたり、次のようにはじめた。「IQの分散を遺伝子の分散と環境の分散に分けて考えようとする人々は、その答えに社会政策との関連があると考えている。すなわち、もしIQの分散がもっぱら遺伝的なものであれば、それは自然なものであり公正で変えることができない。しかし、もしIQの分散がもっぱら環境によるものであれば、それは不自然かつ不公正で、容易に根絶できるというものだ」。
 Goldbergerは遺伝率に関する研究は、それがIQであろうと他の特徴であろうと、社会政策とは無関係だと結論づけた。それがなぜかを以下では説明する。

 

分散分析としての遺伝率

 遺伝率に関する研究では次のような等式が想定される。

アウトカム=遺伝的要因+環境的要因

 あるいはより簡潔に、y=g+eである。gとeは母集団において無相関であると仮定されることが一般的である。
 この等式はgとeが相互作用するのではなく、加法的にアウトカムに寄与することが想定されている。相対的に強い遺伝子を受け継いだ個人は、より好ましい環境の家族で育つ傾向があるという推論が十分に可能なことを考えれば、gとeが無相関であると仮定するのは奇妙なことである。
 ゲノムの存在が知られる以前から遺伝率の研究は始まっていた。gとeはもともと観察されていたものではなく、メタファーであり、象徴的な表象である。この分野においてきょうだいや双子のデータが用いられてきたのは、gとeはメタファーであるにもかかわらず、遺伝率を推定可能なものにしたいという願望によるものである。

 

「より重要である」とは何を意味しているのか?

 遺伝率とは遺伝的要素と環境的要素の相対的な「重要性」を測定しているのだと、しばしば述べられる。Herrnstein and Murray(1994)はThe Bell Curveの中で、親の社会経済的地位よりも認知能力の方が貧困の決定要因としてより重要であると唱えた。gとeを捉える上で標準化された認知能力と親の社会経済的地位(SES)の指標を用い、貧困などの観察されたアウトカムの分散を説明する上での相対的な重要性を測定したのである。
 The Bell Curveに対して、GoldbergerとManskiは1995年のJournal of Economic Literatureの論文で批判を行った。その中では、Glen Cain and Harold Watts(1970)による、教育機会の平等に関するColeman Reportへの批判に注目した。CainとWattsによれば、Coleman Reportは生徒の達成指標と様々な学校要因との関係の「強さ」を、それぞれの要因によって説明された分散で測ろうとしている。しかし彼らによればこのような測定の方法は、政策の選択に関する情報としては不適切である。政策的な関心は、xを意図的に操作したことによってyはどの程度に改善する効果があるか、であるべきはずである。
 これをThe Bell Curveの文脈で述べると、一定の予算をIQまたはSESの改善に割り当てた際に、SESの改善よりもIQの改善の方がアウトカムのより大きな改善をもたらしたというときに、IQがより重要であると言うべきなのである。

 

遺伝率と社会政策

 遺伝率の推定値が大きいことは、政策介入の有効性が小さいことを意味していると解釈されてきた。Goldbergerが示した例として、1977年5月13日のLondon Timesの記事がある。「遺伝と所得の関連が双子で確認される」という見出しの下に、社会政策担当記者のNeville Hodgkinsonは次のように報じた。「個人の所得を決定づける上で遺伝的要因が大きな役割を担っているという知見は、社会政策にとって非常に重要である。なぜなら、『不平等の連鎖』を打破し、社会をより平等にしようという試みは、一般的に考えられているよりもはるかに小さな効果しか持たない可能性が示唆されたからである」。Hans Eysenck教授はこの双子研究にたいへん感銘を受け、「所得と富の分配に関する王立委員会は解散した方がよい」とHodgkinson記者に対してすぐさま伝えた。
 Eysenckに対して、Goldbergerは次のように論評した。「もし視力の分散の大部分が遺伝的要因によることが示されたならば、眼鏡の分配に関する王立委員会は解散した方がよいだろう。また降雨の分散の大部分が自然的要因によることが示されたならば、傘の分配に関する王立委員会も同様に解散してもよいだろう」。
 このGoldbergerの真面目さと機知があわさった文章は、遺伝率の推定値が政策的な意味を持つと考えることのばかばかしさを示している。
 仮にgとeがメタファーではなく、観察可能な統計量だとしよう。双子のような特別なデータや曖昧な仮定は必要とはならない。一方の極として、環境は様々である完全なクローンの集団を考えてみよう。そのとき、gの分散はゼロであり、遺伝率の分散もゼロとなる。もう一方の極として、多様な遺伝子からなる個人がまったく同じ環境を共有している集団を考えてみよう。そのとき、eの分散はゼロであり、遺伝率が1となる。
 これが政策分析と何の関連があるだろうか。何もない。政策分析では、予想した介入が人々の環境を何らかの形で変化させるときに、アウトカムに何の変化が起きるかを問うのである。遺伝率はこのことに対して情報をもたらさない。
 tを個人に割り当てる処置とし、e(t)を処置を受けたときのこの個人の環境とする。個人の潜在的なアウトカムは、y(t)=g+e(t)とする。遺伝率は個人が実際に直面する環境の下で決定されるものであり、介入が生じたときに直面する環境の下ではない。

 

実例

 Goldbergerが引き合いに出した眼鏡の配布を介入として考えてみよう。単純化して、近視が起きるのは特定の遺伝子の対立遺伝子(allele)の存在のみによって決まるとする。この遺伝子が観察可能であり、近視に関する対立遺伝子を持てばg=0、正常な視力の対立遺伝子であれば、g=1とする。
 関心となるアウトカムを、有効な視力の質とする。「有効」とは、眼鏡によって視力が拡大するということである。ある個人は、もし正常な視力の対立遺伝子を有するか、眼鏡があるならば有効な正常な視力となる。もし近視の対立遺伝子を有し、かつ眼鏡がなければ有効な近視となる。
 そして集団の誰も眼鏡が利用可能でないとする。そうであれば、視力の有効な質についての遺伝率は1である。やはり、このことは眼鏡を配布することの有用性に関して、何の意味も持たない。政策的な関心となる問いは、眼鏡が利用可能な環境における視力の有効な質であるにもかかわらず、現実のデータは眼鏡が利用できない場合に起きていることしか示していないのである。

 

なぜ遺伝率の研究は行われ続けるのか?

 遺伝率の研究に伴う論理的な問題を批判しているのはGoldbergerだけではなく、政策に対しては無関係であることが30年以上前から問題が認識されているにもかかわらず、その意義を唱え続ける人々がいるのは、注目に値すると同時に気落ちさせるものである。研究が行われ続けている理由がなぜかはわからない。

 

共変量としての遺伝子

 技術発達によって、特定の遺伝子の発現に関するデータの収集が可能になった。世帯調査において提供された唾液からDNAを引き出すことも一般的になった。
 遺伝子が測定可能になったことで、遺伝率研究におけるメタファーであったgは、データにおける共変量として使用可能なものとなった。以下では、アウトカムの条件付き予測において遺伝子を共変量として使用することについてと、処置反応の分析に使用することについて論じる。

 

条件付き予測

 実証研究における主要な関心の1つは、観察されたアウトカムについて、共変量を統制した上で予測することである。すなわち、回帰分析の考え方である。ジェンダー、健康、人種のようにそれ自体が部分的には遺伝子で決定されている個人要因を統制してアウトカムを予測することは、長らく一般的に行われてきた。回帰分析は因果ではなく統計的な関連を表現するものである。しかし、因果であろうとなかろうと、アウトカムを予測する上でしばしば有用である。
 たとえばCaspi et al.(2003)はパネルデータを用いて、特定の遺伝子の発現と個人の置かれた環境を統制して、うつの予測を行った。研究の結果、遺伝子それ自体ではなく、遺伝子とストレスの多い環境との交互作用による予測力が明らかになった。その後の研究ではこの知見の再現可能性について疑問視されているものの、測定された遺伝子を考慮して健康のアウトカムを予測するという考え方の価値が損なわれたわけではない。
 遺伝率の研究においてgは潜在的な構成概念であったため、アウトカムの予測に遺伝子を用いるという考え方はなかった。さらに、Caspi et al.に見られた遺伝子と環境の交互作用は存在しないと伝統的に仮定されていた。

 

処置反応の分析

 条件付き予測よりも意欲的な目標は、介入による潜在的なアウトカムの予測、すなわち処置反応の分析である。たとえば、医学研究では観察されたリスク要因によって処置反応がどのように異なるかが以前から問われてきた。観察された共変量を条件づけた上で処置の選択を行うことは、ターゲット化あるいはプロファイル化と呼ばれる。
 医学的処置や教育的介入によるアウトカムが、観察された遺伝子によって体系的に異なることがわかれば、医者や学校カウンセラーはこれらの共変量を考慮した意思決定を行いたいと思うかもしれない。遺伝率の研究は社会政策との関連を誤って論じたものの、測定された遺伝子を共変量として用いる研究は政策的な意義を持ちうるのである。
 観察された共変量が「因果的」に処置反応の違いをもたらすのかどうかは重要ではない。観察された統計的関連が将来においても成り立つということが確実でありさえすればよいのである。
 遺伝子の利用に関して倫理的な問題は生じうる。たしかに注意は必要であり、研究を実施する上の制約はかかるかもしれない。しかし、処置の選択にあたってジェンダー、人種など他の個人属性を用いることについても、すでに倫理的な問題は生じている。遺伝子を共変量として用いることに固有の倫理的な問題があるようには思われない。

 

有り余るほどのデータ(An Embarrassment of Data Riches)

 人間のゲノムは約30億の塩基対からなり、30,000以上の遺伝子を構成している。かつては多くの研究ではひとつあるいは少数の遺伝子を共変量として用いていたものの、より多くの数の遺伝子がデータとして利用可能になっている。さらに、遺伝子と多数の環境要因の交互作用にも関心が持たれている。
 計量経済学統計学では、サンプルサイズに対して観察される共変量の数が多い場合に、有効なアプローチを模索してきた。おそらくもっとも単純な方法は、妥当かつ少数の共変量を部分的に選択し、残りは無視することである。
 このような方法とは別に、主成分分析やステップワイズ回帰分析などが提案されてきた。近年ではノンパラメトリック回帰分析の分野において、次元縮小(dimension-reducing)のアプローチが研究されている。さらにデータへの過剰適合(over-fitting)、すなわちサンプルにはあてはまるものの母集団には存在しないパターンを見つけてしまうことを防ぐことにも関心が持たれている。
 次元縮小の方法は役に立つ可能性はあるものの、統計学の理論だけで豊富な遺伝情報を活用できるかどうかは疑問である。生物学者、医学研究者、社会科学者が協同すべきだろう。

 

結論

 100年以上にわたって、遺伝子と人間のアウトカムを結びつけようとする研究には、概念的、技術的な2つの問題があった。概念的な問題とは、遺伝率を推定することに関心を向け、割合を計算して、「より重要である」、「より重要でない」という価値のない目標に取り組むものであった。技術的な問題とは、遺伝子を測定する手段がないというものであった。後者の問題は、gというメタファーを生み出すことで前者の問題にも寄与した。
 概念的な問題は1970年代から理解されており、技術的な問題は過去10年間に克服された。ゆえに遺伝率の研究を今後も行う理由はない。しかし、様々な克服すべき問題はあるものの、観察された遺伝子を共変量として利用することには生産的な未来が存在しうる。