文科系大学院生というスティグマ

大学院進学を考えたあたりの頃から、文科系大学院生というものについて、自分はある種の違和感、スティグマのようなものを感じてきた。
それは、「文科系の大学院に進学するのは賢い選択ではない、周りの人たちの多くは働いているのに恥ずかしいと思わないのか」という論理で説明されるものではないかと思ってきた。学部を卒業して多くが大学院に進学する理工系とは違い、文科系の大学院進学率は高くない。また、日本の労働市場においては、ビジネス系を除けば一般に文科系の大学院卒は学部卒よりも評価が低いからだ。

しかし最近、社会人の友人・知人と話していて思うのは、自分が大学院で研究していることの正当性を主張できないことが、スティグマを感じさせているのではないかということである。

国立大学法人は政府から(法人化以後、徐々に削減されてきているが)運営費交付金を得て、教育・研究活動を行っている。また、自分は(今期は半額だったが)授業料免除の制度を利用している。すなわち、税金を使って自分は大学院に在籍しているわけだ。
しかしながら、税金を使う意義があるだけのことを自分は大学院でやっているということを、社会人の友人・知人に面と向かって自分は説明できないのである。


これは玄田有史仕事のなかの曖昧な不安』で述べられていることにも通じる。

 あの日、高校生が私に率直に質問してきたことがある。「大学の先生って、いくらもらえるの?」私は、なぜかそのとき躊躇し、本当のことが言えなかった。その高校生は「大学の先生って、高校の先生よりたくさんもらってるんでしょ。でも高校のほうがゼッタイたいへんだ」と言った。
 正直に言おう。私の2001年8月の俸給は42万200円だ。それにいくつかの手当もつく。高校生と毎日奮闘する同年代の高校教師にくらべたら、たしかに高すぎる給料かもしれない。だが、金額の問題と同時に本当に考えなければならないのは、私は自分の給料を「これだけ働いているのだから、これだけの金額をもらうのは当然」と誇りをもって言えなかったことだ。私はそのことを悔いている。
(p.255)

 今、私自身、自分の仕事を語る言葉を持っているだろうか。今度、高校生に「あなたはいくら給料をもらっているの?」と訊かれたらば、私は謙虚さと静かな自信を持って、その質問に答えられるだろうか。
 給料は訊かれないにしても、「あなたはこれまでどんな仕事をしてきたんですか」という見知らぬ誰かの問いかけに、はたして私たちは答えられるのか。これからは、そんな問いへの自分なりの答えを、誰もが心の片隅にどこか意識して働くほうがいいと、私は思っている。それが”仕事のなかの曖昧な不安”に立ち向かうのに一番大切なことなのだ、と。
(p.269)