買ったのは結構前なのですが、ダラダラと読んでいたらいつの間にか第2版の訳も出ていました。原書タイトルは Constructing Research Questions: Doing Interesting Research となっているので、かなりの意訳というか、訳者のこだわりが感じられます。関連して、訳者の佐藤郁哉先生が少し前にちくま新書から出していた本の方も読みましたが、そちらも面白かったです。
本来の学術研究の場合には、本来,広い範囲の文献を渉猟し,かつ広い範囲のアイデアに通じるとともに,それらに対する関心を持つことが必要になる。それとは対象的に,Barnett(2010)が痛烈に指摘しているように,現在では,研究室にいるところを同僚に見られた時に本を読んでいる姿を見られると,恥ずかしくて罪を犯した気分になってしまうことすらある。つまり,本などを読むのではなく論文を書くことが想定されているのである。同じように,Gabrielは,彼の同僚の大多数が「ほとんどの場合,論文はアブストラクトの部分に目を通すだけにして,詳細な議論を注意深く理解しようとするためにはそれほど時間を費やしてはいない」と指摘している。「その点からすれば,どうやら多くの者にとっては,(査読評を書くという目的のために論文を読み込むという明らかな例外を除けば)読むことは書くことに比べてそれほど重要ではなくなったようなのである」(2010: 762)。
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上記は「ギャップ・スポッティング方式ではなく、問題化の方法によりリサーチ・クエスチョンを定式化すべき」という本書の中心的な主張からは少し外れた、ギャップ・スポッティング方式が広く浸透している制度的要因を考察している箇所ですが、非常に首肯できるものでした。
竹内洋先生による『学問の下流化』という本のあとがきにおいて、「読書時間が欲しかったから大学教師になったが、今度は専門論文や専門書を読まなければいけなくなり、30代・40代は学会誌などに専門論文を書きながら、『怏々として楽しまず』だった」というような記述があり、この辺りのジレンマはある程度は誰でも抱えているのかなと感じました。社会科学系の学問の国際化や、国立大学法人化以降の「選択と集中」の流れの中で、今後さらに強まっていくようにも思います。