大塚(1955/2000)経済史における諸概念・諸理論の性質について

 

大塚久雄,1955/2000,『共同体の基礎理論』岩波書店. 

 

 ところで、具体的な論述に入るに先立ち、この講義の性質について一言注意を促しておくことにしたい。この講義では、いまも述べたように、経済史の研究および叙述に必要な基礎的諸概念および理論の概要を説明することになるであろうが、その際われわれは決してあの《Prokrustesbett》のあやまちを犯さないよう十分に注意したいと思うのである。たとえば「適用」という語などが時にわれわれにそうした錯覚をおこさせることであるが、この講義で説明される諸概念や諸理論をいわば「鋳型」のようなものと考え、総ての史実を何でもかんでもその中に流しこんでしまうようなやり方を、われわれはお互いに固く戒めたいと思うのである。それは、この講義の内容が未熟であって多くの訂正の必要が想定されるということだけではない。理由は一層深く基本的なものである。というのは、われわれの用いる諸概念や理論はそもそも限られた史実を基盤として構想されたものであり、つねに何らかの程度で仮説(Hypothesis)に過ぎず、したがってまた当然に一層豊富な史実に基づいて絶えず検討しなおされ、訂正あるいは補充され、再構成されねばならない。[1-2] 

 

 いま一度比喩をもっていってみれば、地図は現実の地形にもとづいて作られたのであって、現実の地形が地図に従って作られたのではない。もし両者の間にくいちがいが見出されるならば、地図の読み方が正確である限り、もちろん訂正されねばならぬのはつねに地図のほうであって、地形ではないはずである。この講義で説明される基礎的諸概念や理論は、いわば諸君が史実の森に分け入ろうとするばあいに携行すべき、そのような地図にすぎない。そうした意味合いでこの講義を聞いてもらいたいと思う。[3]

 

Killewald and Bearak(2014)母親の賃金ペナルティに対する分位点回帰の使用について

 

Killewald, Alexsandra and Jonathan Bearak. 2014. "Is the Motherhood Penalty Larger for Low-Wage Women? A Comment on Quantile Regression." American Socoilogical Review 79: 350-7.

 

共変量を含むモデルでは、条件付き分位点回帰(CQR)は、条件付き賃金分布上の異なる位置における母親のペナルティの大きさを推定する(Budig and Hodges 2010: 712)。言いかえれば、条件付き分布は他の特性を所与とした際に個人がより高いあるいは低い賃金であるかを測定する。[352]

 

もちろん、女性の賃金は学歴に依存する。低賃金の労働者は高賃金の労働者にくらべて学歴が低いことが非常に多く、それゆえ条件付き分位点は母親であることの賃金の高低への効果とは解釈できない。そうではなく、それぞれの学歴グループ内の賃金分布の異なる点における、母親であることの賃金ペナルティとして解釈可能なものである。[352]

 

これに対して、非条件付き分位点回帰(UQR)は、回帰に先立つ(pre-regression)分位点を定める(Firpo, Fortin, and Lemieux 2009)。共変量は母親であることと賃金の間に存在する疑似相関を取り除く働きはするものの、それを含めることで個々の観察が賃金分布の中央値や他の分位点に位置づくかには影響しない。それゆえ、非条件付き分位点回帰は、母親であることによる女性の非条件付き賃金分布の異なる点への効果という、Budig and Hodgesの問いに答えるために用いることができる。[353]

 

Holliday(2000)福祉資本主義世界における4つ目の基準

 

Holliday, Ian. 2000. "Productivist Welfare Capitalism: Social Policy in East Asia." Political Studies 48: 706-23.

 

 ここで展開される議論は、Esping-Andersenが用いている3つの基準にくわえ、4つ目の基準が必要だというものである。さらにこのことによって、4つ目の福祉資本主義の世界が明らかになる。その基準とは、福祉資本主義の範囲は福祉国家として特定可能であるほどに社会政策に強く影響された資本主義国家に限定されるべきであるというEsping-Andersenの主張の分析から現れる。この本質的に恣意的な限定は、社会政策に従事はするものの、それを他の政策目標に従属させているような資本主義国家を検証から除外してしまう。しかしながら、そうした国家が除外されるべき妥当な理由はない。むしろ、Esping-Andersenの3つの世界から分離されている社会政策の側面―他の政策目標への従属―は福祉資本主義の世界の中における4つ目の特定基準として用いられるべきである。このように見たとき、Esping-Andersenの3つの世界では(彼自身が明確にしているように)、社会政策が他の政策目標へと従属していない。自由主義的世界と保守主義的世界では、社会政策は特権化されていない。これに対して、社会民主主義的世界においては、社会政策は特権的な位置を占める。第四の、福祉資本主義の生産主義的世界においては、むしろ逆のことが事実であるという対比が見られる。この世界では、社会政策は経済成長という最優先の政策目標に対して強く従属する。他のすべて、すなわち、生産的活動に関連した拡張された最小限の社会権、社会における生産的要素の地位の強化、成長に方向付けられた国家-市場-家族関係は、ここに由来する。[708]

 

 福祉資本主義の生産主義的世界における2つの中心的な特徴は、成長志向の国家と、社会政策も含めたすべての国家政策の経済的・産業的目標への従属である。こうした定義的特徴にくわえ、一連の追加的要素が見られる可能性がある。政策立案者は促進的(facilitative)手段によって経済成長を追求しようとするかもしれない。その場合には、社会政策もまた経済成長の促進に向けて連動されるだろう。あるいは、Johnson(1982)がその古典的研究であるMITI and the Japanese Miracleで述べたように、開発主義的な立場をとり、エリート政策立案者が抜本的な目標として経済成長を設定し、その達成のために確固とした戦略をとるかもしれない。その場合には、社会政策は国家が(少なくとも社会の生産要素に対して)普遍的な福祉プログラムをつくることで普遍主義的となるか、あるいは国家が個別の福祉供給に方向づけることで個別主義的となるであろう。[709]

 

Bourgeois(1981)による組織スラックの定義

 

Bourgeois, L. J. III. "On the Measurement of Organizational Slack." Academy of Management Review 6(1): 29-39. 

 

 Cybert and March(1963)による元の定義:

組織にとって利用可能な資源と、組織の一体性(coalition)を維持するために要求される支払いとの差のこと。

 

  Bourgeois(1981)による定義:

組織スラックとは、内部からの調整へのプレッシャーや、外部からの政策変化へのプレッシャーに対して組織が適応したり、あるいは外部の環境に対する戦略の変化を組織に可能にしたりする、現実のあるいは潜在的な資源という緩衝材である。

 

 私が学部生の時に、学科のシンポジウムにてK先生が、「今の日本の学校教育には余裕がなくなっている。車のハンドルにおける『遊び』にあたるものがもっと必要だと思う。」というようなことを仰られていました。これは学校教育における組織スラックの重要性について述べていたのではないかと、今から振り返って思いますね。

 

Cal Newport (2019) Digital Minimalism: Choosing a Focused Life in a Noisy World

 

Digital Minimalism: Choosing a Focused Life in a Noisy World (English Edition)

Digital Minimalism: Choosing a Focused Life in a Noisy World (English Edition)

 

 

 先日読んだDeep Workが面白かったので、こちらも。本書もいずれ邦訳されそうな気がしますね。Deep Workで主張されていたデジタル技術のもたらすdistractionとの付き合い方に関して、さらに掘り下げる内容になっています。

  1. 一方的な腕相撲(A Lopsided Arms Race)
  2. デジタルミニマリズム(Digital Minimalism)
  3. デジタルの片付け(Digital Declutter)
  4. 一人の時間を過ごす(Spend Time Alone)
  5. 「いいね!」を押してはいけない(Don't Click "Like")
  6. 余暇を取り戻す(Reclaim Leisure)
  7. 注意の抵抗組織に加わる(Join the Attention Registance)

 

 導入部では、「私はかつて人間だった」("I Used to Be a Human Being")という、インターネット上の情報依存に陥った人の記事にふれ、この問題の深刻さに注意を促します。この根拠として、絶えずSNSをチェックするというような行動依存が薬物依存に多くの面で似た傾向を示すという研究や、またアメリカのミレニアル世代では不安障害によってカウンセリングを受ける人々が顕著に増えているという事例を挙げています。

 特に著者が警鐘を鳴らすテクノロジーが、FacebookTwitterなどのソーシャルメディア、あるいはBuzzFeedRedditなどの娯楽情報(infotainment)サービスで。これらの運営会社はユーザーの意識を絶え間なく引きつけ、可能な限り時間を費やさせることで利益を上げる構造になっていることを指摘します。これらのサービスでは人々の依存的な行動を引き起こしやすいにデザインされていたり(「いいね!」機能など)、あるいはスマートフォンの登場によって一日に何度もこれらのサービスにアクセスすることがきわめて容易になったりしたことで、抵抗しようとしても容易には勝てない「一方的な腕相撲」(a lopsided arms race)になってしまっているとのことです。

 このような状況の中で生き方を見つめ直す方法として提唱されるのが、デジタルミニマリズムです。

デジタルミニマリズム

自分の価値観に強く見合うごく少数の注意深く選別・最適化された活動にオンラインの時間を費やし、その他すべてのことは喜んで手放すという技術利用の哲学のこと。

 

 この哲学に従った生き方として、著者が大きく参照しているのが、ソローの「森の生活」です。ソローが主流の経済学と異なって人生における時間をコストの計算において重視していたことや、現代社会における孤独(solitutde)の価値が説かれています。

 興味深かったのは、ソーシャルメディアが人々にもたらす効果に関して、実証研究の結果が一致していないという箇所です。ソーシャルメディアの利用が人々の幸福感を増すという結果と逆に孤独感を増すという結果が混在しているとのことですが、著者の解釈によるとポジティヴな結果を示す研究は利用者の「特定の行動」に注目している一方で、ネガティヴな結果を示す研究はソーシャルメディアの「全般的な利用」に注目しているとのことです。

 つまり、たしかにソーシャルメディアの利用自体にはポジティヴな効果があるとしても、これを打ち消す要因として、ソーシャルメディアをより利用するほどオフラインのコミュニケーションに費やされる時間が少なくなる傾向があり、結果として全般的にはネガティヴな効果が表れるという関係を示しています。

 デジタルミニマリズムにおいては、ソーシャルメディアは基本的に人生において必要のないものに分類され、著者自身はミレニアル世代にもかかわらず、一度も使ったことがないとのことです。このことを周囲に話すと驚かれることが多く、またそういった人々は自身がソーシャルメディアを利用することについて様々な理由をつけて正当化しようとするとのことです。そこに見られるは、少しでも何らかの利益があれば正当化できるという姿勢であり、そうした技術の利用によるコストの面はまったく無視されてしまっていると鋭く指摘します。

 ただし、ソーシャルメディアの利用が仕事上で必要な人々や、離れた家族・友人との連絡に強い価値を置く人々にも一定の理解を示し、なるべく最小限の利用ですむような実践的なアドバイスも提示されます。たとえば、ソーシャルメディアスマートフォンからはすべて削除し、必要であればPCからアクセスするようにするといったことです。つまり、望ましくない行動のコストを高めて、よいルーティンを確立するということですね。

 また、デジタル技術の片付け(digital decluttering)によってできた時間をいかに使うかという計画も大事とのことで、著者が提唱するのは「質の高い余暇」(high quality leisure)です。Deep Workでは職人的精神の価値が説かれていましたが、ここでも自分の手を動かして何かを作るタイプの余暇や、あるいはオフラインで人々と関わるようなタイプの余暇が薦められています。

 自分の例でいうとインターネット上のニュースに関しては、たしかに依存的というか、少なくとも明らかに必要と思われる水準を超えてチェックをしていたという反省があるので、最近は大学の図書館に足を運び、紙の新聞に切り替えて情報を得るようにしています(お金に余裕ができたら新聞の購読を再開したい)。

 

草薙龍瞬(2015)『反応しない練習――あらゆる悩みが消えていくブッダの超・合理的な「考え方」』

 

 

 著者は特定の宗派に属さない独立した僧侶とのことで、また、16歳で家出・放浪→独学で東大に入学→政策シンクタンク→インドで出家という、かなりの異色なキャリアに驚かされました。

 禅に関する本をいくつか読んできたこともあり、「判断をやめ、現在の心のあり方を観察する」というのは理解しやすかったです。他方で、タイトルにある「合理的」というのは最初にひっかかったところで、というのもマックス・ヴェーバーは仏教を目的合理的ではない宗教に分類していたではないか、といったことが頭によぎったのでしょう。

 著者によると、本書が扱っているのは原始仏教と呼ばれる2500年以上前にブッダがもともと説いたもっとも古い教えであり、ブッダは人間が生きる上での悩みをいかに解決するかという目的に対して、徹底的に合理的な思考をしていたとのことです。

 通俗的な仏教の理解だと、世俗的な価値の全面的な否定という印象をともすれば持ってしまいがちですが、本書ではむしろ「快」の状態はむしろ増やすべきという主張をしており、新鮮でした。また、競争社会という現実の中でいかに生きるべきかという問題に対して、競争に乗るか降りるかという二者択一ではなく、競争の中を別の価値観で生きるという選択肢があるというのは、以前に読んだ本にあった、「継続した成長」をモチベーションとする姿勢に通ずるものがあると思います。

 

水瀬ケンイチ(2017)『お金は寝かせて増やしなさい』

 

お金は寝かせて増やしなさい

お金は寝かせて増やしなさい

 

 

 投資信託の一種であるインデックス投資に関する本です。自分にとっては疎い分野で、日経新聞でもだいたい株式・金融市場に関する欄は読み飛ばしてきたので、本書はいろいろと勉強になりました。

 著者がインデックス投資を薦める理由は、それが「もっとも儲かる方法ではないけれども、手間をかけずに儲けるには最良の方法」であるためです。はじめに資産の配分比率さえ決めればあとはドルコスト平均法によって定期的に定額を積み立てるだけでよく、銘柄の選択や売買のタイミングに頭を悩ませる必要がないという、本業ではない個人投資家における大きなメリットを挙げています。

 どのインデックスファンドがよいか、口座はどこで開設するべきかという実践的な面だけではなく、インデックス投資がなぜよい結果を上げられやすいかという理論的な面も素人向けにわかりやすく解説されています。たとえば、分散投資によるリスク(平均期待リターンからのばらつき)の軽減などですが、この辺りは多少なりとも統計学の知識がある自分は頭に入りやすいところがありました。

 また、資産の構成比率を決める上で著者が強調しているのは、「期待リターンではなく、許容できる最大のリスクを基準にすること」とされます。プロスペクト理論にも触れられているように、人々は利益よりも損失により大きなウェイトを置いて評価する傾向にあるので、許容できる最悪の事態を想定することで長期的に安心した投資生活を送ることができるとのことです。ここでも、本業ではない個人投資家のためのメリットが重視されているように思います。