吉見俊哉(2018)『トランプのアメリカに住む』

 

 

トランプのアメリカに住む (岩波新書)
 

 

たしかに東大とハーバードの学部学生の知的な反応を比較するならば、私にはほとんど差はないと感じられた。しかし、教育の仕組みやその根底にある大学についての考え方がまったく違うのである。一言で言うならば、大学の根幹が何よりも高度な「教育」にあること、その基本の仕組みが教員個人の責任においてではなく、大学という機関によって組織的に用意され、授業の情報や成績評価の妥当性、教育の質が徹底的に可視化されている点で、ハーバードは日本の国立大学の現状と大きく異なっていた。

 

 吉見先生の2017年9月~2018年6月のハーバード大学滞在の経験に基づいた著作です。(1)ポスト真実化、(2)階級、(3)ナショナリズムと人種主義、(4)性差別と暴力という4つの次元が設定され、これらを章ごとに当てはめて、トランプに象徴される現代アメリカ社会を多角的に分析しています。

 これら4つの次元とは外れ、「トランプのアメリカ」とも直接は関係ないのですが、ハーバードでの教育経験から日米の大学教育システムを比較している第3章をもっとも興味深く読みました。

 それ以外の章に関しては、吉見先生は基本的にはカルチュラル・スタディーズの枠組みで仕事されてきている方なので、自分には若干肌に合わない議論もところどころに見られます。ただ、リチャード・ローティ文化左翼批判をどのように受け止めているかというところは、立ち位置を覗えてよかったです。

 

  • 東大とハーバードの違いの根幹は、大学教育を個々の教師の営為に委ねるか、エリート育成の総合的システムとして運営するかの違いにある
  • ハーバードでは授業の前に、10ページにわたる詳細なシラバスを作成する必要がある
  • 日本の大学のシラバスが商品を売り込むためのカタログ程度のものであるとすれば、アメリカの大学のシラバスは学生との契約書である
  • 別のメタファーを用いれば、シラバスは授業というドラマの上演に際し、「教師と学生が共有するシナリオ」である
  • 学生が課題文献を読みこんで前提を共有し、TAが議論をリードしてくれることによってシラバス作成後の授業運営の負担は日本の大学よりも小さい
  • 日本の大学では、大学院のレベルですら教師と学生が相互に質問と答えをキャッチボールすることはあっても、学生間で議論が深められていくことはめったにない
  • 中学高校段階から議論する習慣を育成するのは教育行政全般に関わることで、大学だけの力でどうにかできるものではないが、課題文献の予習を通じた問題関心の共有化は、大学自身の努力で改善可能な事項である
  • 課題文献の選択が適切で、学生が興味をもってその文献を読んでいれば、講義自体の出来栄えは不十分でも議論は活発化する
  • 対話式の授業を実施しても、教師は正解を常に持っているという前提を崩さない限り、創造的な対話は生まれない
  • 教師が授業というドラマの主役ではなく、TAや学生が主役となるような演出家としての役割に転換できれば、形ばかりの対話的授業ではないアクティブラーニングが実現できる
  • シラバス・TAの整備は日本の大学においても進められているが、アメリカの大学とは似て非なるものである
  • 問題の根本にあるものは、日本の大学では一学期に学生が履修する科目が多すぎることである
  • アメリカの大学で学生が履修するのは一学期に4~5科目なのに対して、日本では10~12程度であり、この履修科目数の差が日本の大学における学びの構造的な薄さを生み出している
  • 大学教授たちは、日本の大学ではアメリカの大学よりも概してずっと多くの科目を担当している
  • それぞれの科目単位での負担が相対的に軽いから、担当科目の数が多くても日本の教師はなんとかやっていける
  • アメリカの大学で発達した仕組みを日本に導入していくうえでの一丁目一番地は、学生が一学期に取得する科目数を半減させることである
  • ハーバードでは各分野で決定権を持った職員がおり、意思決定の専門化と分業化が巨大組織の運営を効率化している
  • 日本の大学教授は、自分たちが結果的に保持している意思決定のある部分を積極的に手放すことによって、初めて過剰な大学業務から解放される