青い鳥


http://www.aoitori-movie.com/

シネ・リーブル池袋にて。公開終了直前だったので観てきた。重松清原作の同名の小説がもとになっている。


いじめによる自殺未遂者が出た中学校が舞台になっていて、阿部寛が演じる吃音の臨時教師が、いじめを忘れることの卑怯さを問いかけてゆく、といった話。


いじめが起きた時に取られる方向について、この作品では2通りのあり方が描かれていて、それについて考えていたらよく分からなくなってしまった。

一つは、加害生徒、あるいは傍観していた生徒も含めて罰して、それで「手打ち」とする方法。
この作品の中で学校の対応として取られたのはこれ。いじめが起きたクラス全員の生徒に面談を行い、反省文を書かせ、いじめられた生徒は転校したので、後は忘れましょうというもの。

もう一つは、臨時教師が取った方法で、事件のことを風化させず、いつまでも生徒に責任を意識させるというもの。
この教師はクラスに赴任して早々、吃音のために生徒から笑われるのだが、その声をかき消すように「忘れるなんて、ひきょうだな」と言い放つ。
そして、転校した生徒の机を元の場所に持ってこさせ、誰もいないその机に向かって「野口君、おはよう」と不可解として思えないような行動をとる。

その真意は最後の方で明らかにされるのだが、「本当は生徒は転校したくなかったのだし、皆はそのことについて責任がある」ということ。


刑法犯をどのように処罰するかということとも関連してくるのだが、「加害者はある刑罰に服せばいいのか、それとも更生することが求められるのか」という問題だ。

議論のあり得るところだと思う。結局、「人間本当のところ何を考えているのかは分からないのだから、心を改めたかどうかもわからない。だからあくまで外に見える部分だけで処罰すべき」、「いや、いじめを起こさせるのはもともと加害者のパーソナリティのあり方なのだから、きちんと指導して心から改めさせなければならない」というような。


ただ、心のあり方を問題にすると、結局いじめにおける構造の問題が解消されないのでないかと思う。
社会学者の森田洋司が指摘する「いじめの四層構造」という理論がある。いじめは「加害者」「被害者」「観衆」「傍観者」の四層構造をなすというものだ。

実際にそういった構造は存在すると思うが、なぜいじめだけがそういった構造をしなければならないのか、ということは疑問だ。

例えば、道端のホームレスが暴行を受けたという事件があったとして、「あいつはホームレスだから暴行を受けて当然」といった言説は成り立つべきではない(と多くの人は考えているはず)。

それが、いじめにおいては「被害にあった生徒は、少し動きが鈍いので、調子にのっていじめてしまいました」というように被害者の特性にまで触れられる。これはおかしい話で、「いじめの被害にあった」ということがスティグマとならないように、あくまでいじめの加害者は単に加害者として罰せられなければならないと思う。

しかし、加害者の更生を求める立場だと、どうしても「被害を受けた生徒に対して申し訳ないと思いなさい」ということで被害者側がスティグマを意識しつづけがちになってしまうのではないかと思う。


ただ、淡々と加害者を罰せよというのにも問題はある。「更生するチャンスを与えないのは教育的ではない。単に新しい排除を生み出しているだけだ」ということだって言えるし、それこそ最近だと保護者が目の色を変えて抗議してくる場合も考えられる。


まあ、いじめというのは学校だけに限らず、軍隊とか病院とか、閉鎖的でストレスが溜まる空間ではある程度どこでも見られるものではあるのだが。やっぱり複雑だ。


あと、テーマについてだらだらと述べてしまったが、阿部寛の演技の幅の広さはすごいと思う。吃音のためなのか、作品中ではここぞという時以外はほとんど喋らないのだが、台詞なしで見事な雰囲気が作れてしまっていると。

また、メインの生徒役である本郷奏多(仙台出身!)も「ああ、こういう中学生っていいなあ」と思わされたし、主題歌もよかった。