萱野稔人,雨宮処凛『「生きづらさ」について――貧困、アイデンティティ、ナショナリズム』

「生きづらさ」について (光文社新書)

「生きづらさ」について (光文社新書)

いま多くの人が「生きづらさ」を感じています。1998年以降、自殺者数は毎年3万人を超え、毎日のように練炭自殺や硫化水素自殺のニュースが報じられています。鬱病など、心を病む人も増える一方です。これらの現象は、現代社会に特有の「生きづらさ」とは無縁ではありません。その背景には、もちろん経済のグローバル化に伴う労働市場の流動化が生んだ、使い捨て労働や貧困、格差の問題もあるでしょう。他方で、そういう経済的な問題とは直接関係のない「純粋な生きづらさ」もあるでしょう。本書では、さまざまな生きづらさの原因を解きほぐしながら、それを生き延びていくためのヒントを探っていきます。
(帯より)

対談本。萱野さんは見た目も言っていることも格好良いと思う。

本書で主題となるのは、人々の承認、特に近年の社会情勢の変化と結びついたそれである。

人間は自らで自らの価値を証明することができないため、他者からの承認を必要とするわけであるが、それがコミュニケーション様式の変化や、ローカルなコミュニティの解体、非正規雇用派遣労働者の増加という変化によって、疎外状況に置かれている人々が増えてきているのではないかということである。

例えば、コミュニティの力が弱まり個人化が進む社会では、人々は単に何かに所属することによって承認を得るのが難しくなる。よって、コミュニケーションを通じた承認の重要性が高まるが、それには高いスキルが必要であり、「空気を読む」ことへの圧力が高まる社会においてはますます難しくなる。

あるいは、日雇い派遣の人などを考えてみると、収入がなく、危険な労働にさらされるという「生きづらさ」がある。それだけではなく、職場では名前で呼ばれることもなく、スキルや人間関係を積み上げてゆく機会もないというような「生きづらさ」も存在する。

そうした状況の中、ナショナリズムに承認を求めるようになる人々が出てくるのは、当然だと著者たちは言う。特に、フリーター派遣労働者の人たちは、身近で働く外国人労働者に自らの職を奪われるのではないかという不安のため、排外的なナショナリズムに走るという。


承認の問題は、やはり現代社会を考える上で重要な気がする。伝統的な左翼と体制派の右翼が、この問題に関心がないことに憤っているという、萱野さんの発言には全く同意。

また、赤木智弘の「希望は戦争」論文*1が、自らのアイデンティティの拠り所を明示してしまったことによって、一部の右派が「興ざめ」し、左派に転向したというエピソードが面白かった。


雇用の問題が大きいとは言っても、それだけではないので処方箋は難しい。しかし、本書の最後の方で言われているように、「自己責任論」に容易に回収されないことや、どのような境遇に置かれている人に対しても、寄る辺はあるのだということ(例えば「もやい」のような)をきちんと情報発信してゆくことは重要かもしれない。


*1:赤木智弘「『丸山眞男』をひっぱたきたい 31歳フリーター。希望は、戦争。」(『論座』2007年1月号)  当時、コンビニの深夜アルバイト店員であった著者は、自らの不安定な生活を書いた上で、90年代のバブル崩壊以降、若者にしわ寄せをすることで正社員の雇用を守ってきた企業のあり方を批判する。そして、そのような「一部の弱者だけが屈辱を味わう平和」であるよりは、戦争が起きて社会が流動化し、「国民全員が苦しむ平等」の方がよいと言い、当時の左派論壇に衝撃をもたらした。なお、この論文のタイトルは次のようなことを意味している。第二次世界大戦中に、当時東京帝国大学の教員していた丸山眞男は、徴兵を受ける。そこで彼は、中学にも進んでいないであろう一等兵に執拗にいじめを受けた。つまり、戦争が起きれば自分も丸山眞男をひっぱたけるような立場になれるかもしれないという著者の希望の表れなのである。