ハワード・S・ベッカー(小川芳範訳)『ベッカー先生の論文教室』第1章「大学院生のための基礎英語」

 因果言明を使うことができない、あるいは、使いたがらない、というのが社会学者の文章をまずいものにする二つめの理由だ。デイヴィッド・ヒュームの『人間知性研究』以降、事象間の因果的結びつきを立証したと主張するのは神経を要する。今日、因果についてヒュームのように懐疑的な立場をとる社会学者はほとんどいないし、J・S・ミル、ウィーン学団をはじめとする哲学者らによるヒューム批判の蓄積も存在する。けれども、「AがBを惹き起こす」と主張することは深刻な学問的リスクを伴うことを社会学者の大半が認識している。その結果、社会学の論文には複数要素の共変関係を記述する方法が山ほどあるが、その多くは著者の真意を仄めかしつつそれを明示することを躊躇する、虚ろな表現にすぎない。つまり、「AがBを惹き起こす」と書くことをおそれ、その代わりに「両者は共変化する傾向をもつ」あるいは「二者間には相関関係が存在するように思われる」などと社会学者は書くのである。

 なぜ社会学者はそんなことをするのか、その理由について考えてみると、わたしたちは書くことにまつわる儀礼の問題へと連れ戻されることになる。わたしたちがそんなふうに書くのは、そうしないとつまらない誤りを他人に指摘され、嘲笑の的になるのではないかと怖れてのことなのだ。批判に答えられないかもしれないような大胆なことを言うより、いくぶん退屈でも当たり障りのないことを言っておくにこしたことはない。「AはBと共に変化する」と書くことは、それが著者の真意ならば、なんら問題ではないし、「わたしの考えでは、AがBを惹き起こすのであり、そのことはデータが両者の共変関係を示すことにより支持される」と書くのは理に適っている。しかし、こうした表現を使って、そうと明言することなく強い主張を仄めかしつつ、そちらについての文章責任を免れようとする不逞な輩も少なからずある。因果関係を発見するのは科学者としての関心事項であり、それを望む一方、そうした主張にともなう哲学的責任はご免蒙りたいというわけだ。

(pp.11-12)

  書くという行為を、私的な営みではなく公的な問題として捉えるという点で、いわゆる文章法についての本とはかなり異なる作品です。通常、他人から見えることのない執筆のプロセスについて、それがなぜ見えなくなっているのかを、プロフェッショナルな共同体のあり方から説明がされています。