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Ritzer and Stepnisky. 2013. Sociological Theory 9th Edition. Chapter 5. "Georg Simmel". pp.158-187.

メモ

Ritzer, George and Jeff Stepnisky. 2013. Sociological Theory 9th Edition. McGraw-Hill.

 

 導入

・ジンメルのアイディアがアメリカの社会学理論に与えた影響は、これまで論じたマルクス、デュルケーム、ヴェーバーとはかなり異なっている。これら3人は20世紀の初頭においてはアメリカの理論にあまり影響を持っていなかった。これに対して、ジンメルはアメリカの社会学者にかなり知られていた。近年、ジンメルの影響は、彼のもっとも重要な著作である、『貨幣の哲学』によって、ますます高まってきている。

 

主要な関心(Primary Concerns)

・ジンメルは主には哲学者であり、多くの著作は哲学的な問題や他の哲学者についてのものである。
・マクロ的である葛藤理論(conflict theory)への貢献を例外とすれば、ジンメルは小集団の研究(small-group research)、シンボリック相互作用論、交換理論(exchange theory)へ貢献したミクロ社会学者としてよく知られている。ジンメルのこれらの領域への貢献はすべて、社会学者は主として社会的相互作用の形式(forms)と類型(types)を研究すべきであるという彼の信念によるものである。

 

  • 関心の水準と領域(Levels and Areas of Concern)

・ボットモア(Bottomore)とフリスビー(Frisby)は、ジンメルの研究には、4つの基本的な関心の水準があると主張する。第一に、社会生活における心理的な要素についての、ミクロ的な仮定である。第二に少し大きな規模として、個人間の関係における社会学的な要素への関心である。第三に、さらにマクロ的である、同時代における社会的・文化的「精神」(spirit)の構造と変化についてである。これら3つを包括する第四のものとして、生における究極的な形而上学的原則(metaphysical principles)というものがある。
・このように社会現実には複数の水準があるという関心は、社会学には異なった3つの「領域」(areas)があるという定義にも表れている。第一に、「純粋」(pure)社会学である。この領域では、心理的変数は相互作用の形式と組み合わさる。彼はミクロ的な研究として、相互作用が起きる形式および、相互作用に参加している人々の類型を行った。形式とは、服従(subordination)、支配(superordination)、交換(exchange)、葛藤(conflict)、社交(sociability)といったものである。類型については、競争相手(competitor)、コケット(coquette)などの相互作用の構造における位置を、吝嗇(miser)、浪費家(spendthrift)、よそ者(stranger)、冒険家(adventurer)などの世界への志向と区別している。中間的な水準として、「一般」(general)社会学がある。これは、人間の歴史における社会的・文化的な生産物を扱うものである。そして、「哲学的」(philosophical)社会学がある。これは、人間の基本的な性質および、不可避の運命を扱うものである。

 

  • 弁証法的思考(Dialectical Thinking)

・形而上学的な水準を除いた、社会的現実の3つの基本的な水準における相互関係の分析について、ジンメルの方法は弁証法的な特徴があり、マルクスを思わせるものがある。弁証法的アプローチとは、複数の原因と因果の方向性があると考え、事実と価値を分離することはできないとみなし、現在だけではなく過去と未来にも注目し、葛藤と矛盾に深い関心を持つものである。
・マルクスとジンメルには似たところがあるものの、彼らは社会的世界の異なる側面に注目し、未来についての非常に異なったイメージを提示している。マルクスの革命的な楽観主義とは異なり、ジンメルの考えは、ヴェーバーにおける逃げ場のない「鉄の檻」(iron cage)のイメージに近い。

 

流行(Fashion)
・ジンメルは流行についての矛盾を描いている。一方で、流行とは集団の要請に同調したいと願う人々に対して、そうすることを許容する社会関係の形式である。しかし他方で、流行とは個性的でありたいと願う人々に対して、逸脱を可能にさせる規範でもある。流行とは、成功し普及することで、結果的に失敗するという意味において弁証法的である。また別の二重性は、流行の動きを作るリーダーの役割にある。リーダーは逆説的に、誰よりも流行に従うことによって、集団を先導する。最後に、流行に乗らない人々は、流行に従う人々は模倣者であるとみなすことで自らを特異(mavericks)であるとみなすが、ジンメルはこのような人々は模倣の逆の形態に従事しているだけだと主張する。

 

個人的(主観的)文化と客観的文化(Individual (Subjective) Culture and Objective Culture)
・ジンメルによれば、人々は社会構造および文化的な生産物によって脅かされる。ジンメルは個人的文化と客観的文化を区別する。後者はジンメルにとってさらに重要であった。客観的文化とは、人々が生産するものである(芸術、科学、哲学など)。個人的(主観的)文化とは、客観的文化の要素を行為者が生み出し、吸収し、支配する能力のことである。客観的文化の問題は、それ自身の生命を持ち始めることである。エッツコーン(Etzkorn)は次のように言う。「ジンメルの弁証法においては、人間は自らが作り出しものの、有機的な要素をなくした物によって生命を奪われる危険が常にある。」

 

より以上の生と生より以上(More-Life and More-Than Life)
・哲学的社会学の領域においては、さらに弁証法的な思考が見られる。社会的・文化的構造の発生について、ジンメルはマルクスの考えにとても近い立場をとっている。マルクスは人間とその生産物の分離を描くことにおいて、商品の物神崇拝(fetishism of commodities)という概念を用いた。マルクスにとっては、これらの分離は資本主義において頂点に達する。そして、社会主義の未来においてのみ克服されるものである。しかし、ジンメルにとってはこの分離は人間の生において本質的である。彼は、「より以上の生」(more-life)と「生より以上」(more-than-life)の間に不可避の矛盾があると表現する。
・第一に、人間はそのたゆまぬ創造的な能力によって、自らを超越(transcend)することができる(より以上の生)。第二に、この超越的で創造的な能力によって、絶えず人間を超越する物が生み出される。こうした客観的な存在(生より以上)は、物を最初に生み出した創造的な力(より以上の生)とは相容れずに対立する。
・このように形而上学的な概念において、ジンメルはマルクスよりもヴェーバーに近い世界のイメージに至っている。

 

個人の意識(Individual Consciousness)

・ジンメルは、人間は創造的な意識(creative consciousness)を有していると、はっきり考えていた。
・ジンメルによる相互作用の形式についての議論はすべて、行為者は他の行為者を意識的に志向していなければならないということを示唆している。例えば、階層化されたシステムにおける相互作用においては、上位者と下位者が互いを志向していることが要求される。
・ジンメルは、社会的・文化的構造はそれ自らの生命を有するようになると考えていたが、それらの構造が人々に影響を持つためには、人々がそうした構造を概念化しなければいけないということも感じていた。ジンメルは、社会とは単に「そこに」存在するのではなく、「『私の表象』、すなわち意識の活動に従属するもの」でもあるのだと主張した。
・くわえて、ジンメルは人間が自分自身に心の中で向き合うという能力の概念についても考えていた。これは、G.H.ミードやシンボリック相互作用論者にとても近い考え方である。行為者は外的な刺激を取り込み、それを評価し、異なった行為を試し、そして何をすべきかを決める。こうした心的な能力のために、行為者は単に外的な力の奴隷となることはないのである。しかし、こうした心的な能力の概念にはパラドックスがある。精神は人間が外的な刺激の奴隷となることを避けることを可能にするが、しかしまた社会的現実を物象化し、人間を奴隷化する物を作り出すことにもなるのである。

 

社会的相互作用(関連)(Social Interaction (”Association”))

・現代社会学において、ジンメルは社会的相互作用のパターン、すなわち形態の理解へ貢献したことでもっとも有名である。彼の主要な関心のひとつは、意識的な行為者どうしの相互作用(関連)にあった。またある時にはささいであっても、別の時には重要であるような、幅広い相互作用を見ることにも関心があった。ジンメルはデュルケーム的な社会的事実ではなく、小規模な水準に注目することを明確にしている。

 

  • 相互作用:形式と類型(Interaction Forms and Types)

・ジンメルにおける主要な関心のひとつは、社会的相互作用の内容(content)ではなく、形式(form)であった。この区別は、カント的な哲学の伝統に由来している。しかし、ジンメルの立場は非常に単純である。ジンメルの考えによれば、現実世界は数えきれない出来事、行為、相互作用などで構成されている。この現実の迷路(「内容」)を処理するために、人々はこれらにパターン、すなわち形式を課すのである。ジンメルによれば、社会学者の仕事は普通の人々がやっているのと同様に、社会現実に限られた数の形式を課し、よりよく分析ができるようにすることである。
・ジンメルの形式社会学に対しては、何も存在していないところに秩序を課しているなど、批判も見られる。しかし、彼のアプローチを擁護することは様々に可能である。第一に、ジンメルが提示している数々の現実生活の例によって、この方法が現実に近いことである。第二に、社会現実に対して恣意的で固定的なカテゴリーを課すのではなく、社会現実に由来するように形式を許容するものである。第三に、ジンメルのアプローチは、社会的世界のすべての側面が強いられるような、一般的な理論図式を採用しているわけではない。よって、例えばパーソンズのように、理論図式の物象化が起きることを避けている。最後に形式社会学は、多くの社会学に見られる、不十分に概念化された経験主義に対して反対する。ジンメルは確かに経験的「データ」を用いたが、それは途方に暮れさせるような社会現実の世界に秩序を与えようという努力の下に置かれるものなのである。

 

社会の幾何学(Social Geometry)

●数(Numbers)
二者関係と三者関係(Dyad and Triad)
・ジンメルにとって、二者関係と三者関係には重要な違いが存在する。二者関係には独立した集団構造というものが存在せず、2人の個人が含まれるという以上の意味はない。二者関係ではそれぞれのメンバーは高いレベルの個別性(individuality)を保っている。
・三人目の個人が加わることで、新たな社会的役割が可能になる。例えば、集団における論争において、三人目は調停者となることができる。三人目はまた、自分の優越性を高めるために、意図的に他の二人の対立を助長することも可能である。二者関係から三者関係へ移行することは、個人とは独立し、かつ個人を支配するような構造が発展する上で、不可欠のものなのである。
・二者関係から三者関係への移行のプロセスは、さらに大きな集団へと継続してゆき、最終的に社会が現れる。こうした大きな社会構造において、個人はだんだんと社会構造から分離し、孤独、孤立、分断されたものとなる。「ジンメルによれば、社会化された個人はつねに、社会に対して二重の関係の中にいる。個人は社会の中に組み込まれているが、しかし社会に敵対している。」

 

集団の大きさ(Group Size)
・より一般的な水準において、ジンメルは集団の大きさの影響について、相反する態度を持っていた。一方で、彼は集団や社会が大きくなることは個人の自由を増加させると考えていた。小さな集団や社会は個人を完全に支配しやすいからである。これに対して、大きな社会においては、個人は様々な集団に関与し、それらの集団は個人の全人格の小さな一部しか支配しない。しかしながら、ジンメルは大きな社会は結果的に個人の自由を脅かす様々な問題を作り出すと考えた。例えば、大衆は単一の単純すぎる考え方に支配されやすいということである。
・おそらく最も重要なことは、相互作用の形式の大きさと区別を拡大することは、個人間の結束を弱め、非人間的で分断された関係にしてしまうということである。逆説的なことであるが、個人を自由にさせる大きな集団は、同時に個人の自由を脅かすのである。同様に逆説的なことに、大衆社会における脅威に対処するために個人が取れる方法のひとつは、家族などの小さな集団に自らを埋没させることであると、ジンメルが考えたということである。

 

●距離(Distance)
・社会幾何学においてジンメルの別の関心は、距離についてであった。レヴィン(Levine)は次のように言う。「形式の性質と物の意味は、個人と他の個人・物との相対的な距離の関数である。」
・『貨幣の哲学』(The Philosophy of Money)の中で、ジンメルは価値についての一般的な原則を明確にした。もっとも重要な点は、ある物の価値は行為者からの距離によって決まるということである。それは近すぎて簡単に手に入るものでも、遠すぎて手に入れるのが難しいものであっても、価値がない。
・距離は、『よそ者』(The Stranger)というエッセイにおいても中心的な役割を担っている。ある個人が近すぎるとすれば、彼または彼女はもはやよそ者ではない。しかし遠すぎるとすれば、集団との関係をもはや全く持たない。集団と特有の距離を持つことによって、よそ者は様々な独特の相互作用のパターンをもたらす。例えば、よそ者であるために、集団のメンバーは秘密を気軽に打ち明けることができる。

 

社会的類型(Social Types)
・よそ者という類型の他にも、ジンメルは吝嗇、浪費家、冒険家、高貴な人間(nobleman)などを挙げている。ここでは貧者という類型に焦点を当てる。

 

●貧者(The Poor)
・他の類型の研究と同様に、貧者は社会関係から定義される。それは他者に支援されている人、あるいは少なくとも支援される権利を持っている人という定義である。ジンメルは貧者を量的に、すなわち貨幣の量を欠いていることによる定義を明確に拒否していた。ジンメルは、様々な互酬的(reciprocal)な権利と義務が貧者と支援者の関係を定義すると主張した。貧者は支援を受ける権利を有しており、この権利によって支援を受けることの痛みは和らげられるのである。逆に、支援者は貧者に与える義務を有しているのである。ジンメルはまた、機能主義的な立場をとる。貧者が社会の敵にならないように、社会は貧者を支援することを要求する。よって、貧者を助けることは、社会のためであり、貧者自身のためではないのである。
・ジンメルはまた、貧困に関して相対的な見方を持っていた。貧者とは単に社会の底辺にいる人々ではないのである。こうした観点からすれば、貧困とはすべての社会階層で見つかることになる。この概念は後の相対的剥奪(relative deprivation)の前兆である。

 

社会形式(Social Forms)

●支配と服従(Superordination and Subordination)
・支配と服従には互酬的な関係がある。リーダーは他者の思考と行為を完全には決定したくはない。
・大半の人々にとって、支配とは服従者の自律を完全に取り除くことである。しかし、ジンメルはもしそうしたことが起こるとすれば、社会関係は終わってしまうだろうと主張する。
・ジンメルは、服従は個人、集団、客観的な力に対して起こると主張した。一人の人間による支配は、そのリーダーを支持すること、あるいは敵対することで堅く結び付けられた集団を生じさせやすい。
・客観的な原則による支配は、もっとも攻撃的(offensive)になることを見出した。なぜなら、人間関係や社会関係が取り除かれてしまうからである。人々は非人間的な法則に決定づけられており、自ら変えることはできないと感じてしまうのである。

 

社会構造(Social Structures)

・ジンメルは大規模な社会構造については直接的にはほとんど何も言わなかった。実際のところ、彼は相互作用のパターンを強調していたので、彼はしばしば大規模な水準の社会現実については存在を否定した。これのよい例は、彼の社会に関する定義であり、デュルケームに代表されるような社会を実在的に考える立場を拒否した。ジンメルはまた、社会は孤立した個人の集まり以上のものではないという考え方にも不満を持っており、社会は一連の相互作用からなるという中間的な立場を採用した。
・ジンメルは相互作用的な立場を明確にしていたにもかかわらず、自身の多くの研究において、社会が実在の物質的構造を持っているかのような、実在論者として振る舞っている。
・このパラドックスを解く鍵は、彼の形式社会学と、歴史的・哲学的社会学の間の差異にある。後者において、彼は社会が、客観的文化の発達というより大きなプロセスの一部であると見なしていた。「我々の文化がますます客体化(objectification)し、ますます非人間的な要素が増加し、個人の主観的全体性(subjective totality)を取り込めなくなっているということもまた、社会構造を伴うものである。」

 

客観的文化(Objective Culture)

・ジンメルの考えでは、人々は文化を創り出すが、また人々は社会現実を物象化するので、文化的・社会的世界はそれ自らの生命を有するようになり、だんだんと創り出した人々を支配するようになる。人々は文化を再び創り出す能力も有しているが、歴史の長期的な傾向としては、文化は人々に対してますます強制力を持つようになるのである。
・自らの著作の様々な箇所において、ジンメルは客観的文化の構成要素を多く挙げている。例えば、道具(tools)、交通手段、科学の成果、技術、芸術、言語、知的空間(the intellectual sphere)、社会通念(conventional wisdom)、宗教の教理(religious dogma)、法システム、道徳のコード、理想などである。
・ジンメルがもっとも懸念していたのは、客観的な文化が大きくなってゆくことで、個人的文化が脅威にさらされることであった。ジンメルは個人的文化が支配している世界に共感を持っていたが、そのような世界はますますありえなくなっていると感じていた。これを「文化の悲劇」(tragedy of culture)と呼んだのである。
・もっとも有名なエッセイの一つである、「大都市と精神生活」(The Metropolis and Mental Life)において、近代都市における相互作用の形式を分析している。大都市は、個人的文化の減退と客観的文化の増大が起きる「純粋な舞台」(genuine arena)である。また、貨幣経済および貨幣の優越が起きる場である。貨幣の使用が広まることで、生活のすべての領域において計算可能性と合理性の増大が生じる。人間の純粋な関係性は減退し、社会関係は無関心(blasé)で控えめ(reserved)な態度に支配される。都市はまた分業の中心でもあり、専門化によって客観的文化はますます拡大するのである。
・都市についてのエッセイの中で、ジンメルはまた、人々を自由にする効果について述べていることにも注意すべきである。例えば彼は、人々が近代都市においては、小さな町においてきつく閉じ込められていることに比べて、より自由になっているという事実を強調する。
・ジンメルは交換(exchange)が、「もっとも純粋で最も発達した種類の」相互作用であると考えた。ジンメルにとって貨幣はもっとも純粋な交換形式である。物々交換の経済に比べて、貨幣経済は終わりのない交換を可能にする。これは社会構造と客観的文化の広い発達の基礎をもたらすので、この可能性は重要である。交換の形式としての貨幣は、疎外の原因のひとつとなるのである。

 

  • 貨幣の哲学(The Philosophy of Money)

・タイトルから、ジンメルが貨幣に焦点を置いたことは明らかであるが、彼の関心は価値(value)というより広い問題にあり、貨幣とは価値の形式の一つと見なしていたのである。また別の水準では、ジンメルは貨幣それ自体ではなく、行為者の「内的世界」(inner world)および全体としての客観的文化における幅広い現象への影響に関心を持っていた。さらに別の水準では、彼は貨幣を具体的な現象として、他の生活の要素、例えば「交換、所有、強欲、浪費、冷笑、個人の自由、生活の様式、文化、個性の価値」などとつながっていると考えた。最後に、もっとも一般的な水準において、ジンメルは貨幣とは人々が生活の全体性(totality)を理解することを助けるものであると考えていた。
・『貨幣の哲学』は、マルクスの著作と共通するところが多い。マルクスと同様に、ジンメルも資本主義と貨幣経済の問題に注目した。しかしながら、マルクスは同時代における様々な問題を資本主義に特有なものであると論じたが、ジンメルはこれらの問題が普遍的な悲劇(universal tragedy)、すなわち個人が増大する客観的文化の前に無力になってゆくことの、一部であると考えた。マルクスの分析は歴史に特有のものであるが、ジンメルの分析は人間の歴史における普遍の真理を引き出そうとしている。マルクスは経済的な問題は、資本主義社会において生み出される終わりの決まっているものであるため、最後には解決されると考えた。しかし、ジンメルはこれらの問題は人間の生活に本質的であり、将来的に解決するという希望を持っていなかった。現在と未来についてのイメージという点で、ジンメルの考えはヴェーバーの「鉄の檻」のにはるかに近い。

 

  • 貨幣と価値(Money and Value)

・人々は物を作り、その物から自らを分離し、そして「距離、障害、困難」(distance, obstacles, difficulties)を乗り越えようとすること価値を生み出すと、ジンメルは主張した。ある物を手に入れる困難が大きいほど、その価値は大きくなる。しかし、手に入れるための困難には、「上限と下限」がある。近すぎて簡単に手に入る物も、遠すぎてほとんど手に入れることが不可能な物も、価値はない。行為者と物の間の距離を決めるものは、手に入れるためにかかる時間、希少性、手に入れるための困難、他の物をあきらめる必要性である。
・経済の領域において、貨幣は物からの距離を生み出すものであり、またこの距離を克服する手段をもたらすものでもある。

 

  • 貨幣、物象化、合理化(Money, Reification, Rationalization)

・価値を生み出してゆくプロセスの中で、貨幣は市場、近代経済、そして近代資本主義社会の発展の基礎をなすものにもなる。貨幣はこれらが自らの生命を有し、人々に外的でありかつ強制的になるような手段をもたらす。これはかつての物々交換の社会とは大きく異なる。ジンメルは、貨幣は「長期の計算可能性、大規模な事業体、長期の信用」を可能にすると述べる。この物象化のプロセスは、精神がその中に物を体現し象徴化するというより大きなプロセスの一部にすぎないと、ジンメルは考えていた。
・貨幣は物象化だけではなく、社会的世界の合理化にも寄与する。これはジンメルがヴェーバーと共有していたまた別の関心である。貨幣経済によって質(quantity)ではなく量(quantity)が重視されるようになる。
・それほど明らかではないが、貨幣は近代世界において知性の重要性を増加させることで合理化に寄与する。一方で、貨幣経済の発達は精神機能の拡大を必要とする。また一方で、貨幣経済は社会における規範と価値の大きな変化に寄与する。知性は人々の精神的能力のなかでもっとも価値があると見なされるようになる。
・Arditiは、ジンメルにおける合理化というテーマは、ジンメルの非合理的なものの考えについての文脈の中で捉えられるべきだと主張した。「ジンメルによれば、非合理的なものは『生』において本来的、本質的な要素であり、人間の性質において欠かせないものである」。非合理的なものの例の一つは、愛情(他には感情や信仰)である。愛情とは実利的ではなく(impractical)、知的経験とは反対のものであるといった点で、非合理的である。合理化が進むことによって、人間はこの非合理的なものを失ってしまい、「人間の特質においてもっとも意味のあるものを失ってしまう」。この人間の真正性(authenticity)を失ってしまうことこそ、悲劇である。

 

  • 負の影響(Negative Effects)

・貨幣それ自体が目的となってしまった社会においては、個人に対する様々な負の影響が存在する。特にその中の2つは、冷笑主義(cynicism)と、無関心(blasé)である。冷笑主義は、社会生活の最高の部分が最低の部分と同様に売りに出され、貨幣という共通項に縮減されることでもたらされる。すべてのものには価格があり、市場で売買できるというような冷笑的な態度である。貨幣経済はまた、無関心な態度を誘発する。「すべてのものは同じように退屈で、どんよりと曇っており、興奮するに値しない」というような態度である。
・貨幣経済におけるまた別の悪い影響は、非人間的な関係が増大することである。個人を人格として扱うのではなく、立場としてのみ扱うようになってゆくのである。
・貨幣経済においては、人間的な価値が金銭的な価値に縮減される。ジンメルの挙げる最良の例は、売春の増加であり、この一部は貨幣経済が理由であると見なせるのである。

 

  • 文化の悲劇(Tragedy of Culture)

・個人的文化と客観的文化がますます乖離してゆくのは、近代社会における分業の増加によるところが大きい。専門化の度合いが増すことによって、文化的世界における様々な要素を創り出すことが可能になるが、同時に専門化した個人は、文化の全体性への感覚および、それを支配する能力を失ってしまう。
・客観的文化の拡大は、生活のリズムにも大きな影響を与えてきた。例えば、かつては食物の消費は季節に従うものであり、しばしば不確実性の大きいものであった。どのような食物がいつ消費されるかは収穫に依存していた。しかし、今日では保存と輸送の方法が発展したことにより、どのような食物もいつでも食べられるようになっている。
・他にもコミュニケーションにおいては、不定期で不確実な郵便車は、テレグラフ、電話、毎日の郵便サービス、ファックス、携帯電話、Eメールなどに取って代わられてきた。
・このような変化にはよい面もある。例えば、人々は自然の生活リズムに制限されることが少なく、より自由になった。しかし、こうした発展はすべて客観的文化の水準におけるものであり、個人的文化を疲弊させるプロセスの一部なのである。
・究極的には、貨幣こそが生の相対的な様式を増大させる上での象徴であり、主要な要因なのである。言いかえれば貨幣はすべてを相対化させることを可能にする。貨幣経済は、かつての生活において人々が信じていた、様々な不変の真理を破壊する。
・貨幣経済は人々を様々な面で自由にするのは事実である。例えば、拡大した市場において多くの人々との取引を可能にし、個人の義務はすべてを網羅するものではなく特定の物事に限定される。また、貨幣経済によって、人々は所属集団に拘束されることから自由にもなる。ジンメルはこうしたよい効果を注意深く指摘するものの、彼の議論の中心にあるのは、近代にともなう様々な問題、特に「文化の悲劇」なのである。

 

秘密:ジンメル社会学の事例研究(Secrecy: A Case Study in Simmel’s Sociology)

・『貨幣の哲学』はジンメルの研究の例として典型的なものであるとはいえない。より具体的な相互作用、すなわち秘密に関する研究において、ジンメルの特徴はより明らかに表れている。秘密とは、ある個人が何かを隠そうとする意図を持っている一方で、もう一人の個人がそれを暴露しようとしている状況として定義される。
・人々は他者と相互作用をする上で、相手のことを何かしら知っていなければならないという、基本的な事実から議論を始める。例えば、取引をする相手は友人なのか、親戚なのか、小売店主なのかといったことである。しかし、私たちは思考、気分など、相手のことを完全に知ることはできない。しかし、相手との実際の相互作用と、心象(mental picture)の弁証法的な関係によって、かなりの程度において相手についての一貫した心象を持つことができると、ジンメルは述べる。
・生活のあらゆる面において、私たちは真実(truth)だけではなく、無知(ignorance)や、誤解(error)を獲得する。しかし、他者との相互作用の中においてこそ、無知や誤解はきわだった特徴を持つことになる。
・私たちはすべてのことを明らかにしたいと思ったとしても、情報が多すぎることによってそれは不可能である。よって、他者に伝える情報は選択しなければならない。私たちはあらゆる相互作用において、自らのごく一部のみを暴露しているのである。
・このことによって、嘘(lie)が生まれる。嘘をつく人は、単に誤解を生ませるというだけではなく、他者に対して意図的に真実を隠すのである。
・ジンメルは社会幾何学(social geometry)の用語、特に距離(distance)のアイディアから嘘の議論を行っている。配偶者、恋人、自分の子どもなど、「私たちに最も近い人々がつく嘘は、生を堪えがたいものにする」。
・日々のコミュニケーションはすべて、双方が知っている事実と、一方しか知らない事実の要素の組み合わせである。後者の存在によって、社会関係の「遠さ」(distanceness)が生まれる。
・秘密は社会の大きさに関連している。小さな集団においては、秘密を保持し続けるのは難しい。さらには、小さな集団では誰もが似通っており重要な差異が存在しないので、秘密は必要にもならない。
・もっともマクロな水準においては、秘密は相互作用の形態であるだけではなく、集団全体を特徴づけるものにもなる。個人が保有する秘密とは異なり、秘密結社(secret society)における秘密は成員のすべてに共有され、その互酬的な関係を規定するものとなる。しかし、個人における秘密と同様に、秘密結社における秘密も永久に隠し通すことはできない。常に秘密が明るみに出たり、暴露されたりするという緊張が存在し、秘密結社の存在基盤を破壊するものとなるのである。

 

  • 秘密と社会関係(Secrecy and Social Relationship)

・ジンメルは互酬的な知識と秘密という観点から、様々な形の社会関係を検証している。私たちはみな、様々な利害集団(interest groups)に所属しており、その中で限られた基準にしたがって他者と相互作用をする。例えば、大学において学生は、教室における教授の言動に関心があるのであり、教授の人生と人格のあらゆる側面に関心があるわけではない。客観的文化が増大することで、ますます限定された利害集団が生まれ、個人の主観的な全体性はますます不要になってゆくとジンメルは主張した。
・近代における非人間的な関係においては、信頼(confidence)が相互作用の形態としてますます重要になる。ジンメルによれば、「信頼とは他者について知っていることと、無知であることの中間」である。近代世界においては、私たちはたいていの人々について多くの知識を持ってはいない。学生は教授について多くを知らないが、しかし教授は約束した時間にやって来るという信頼が必要である。
・また別の形の社会関係は、知人関係(acquaintanceship)である。ジンメルはこの概念の下で分別(discretion)という相互作用の形態を議論している。「分別とは知ることを許されていないことについて、何も述べないことである」。私たちはこのことによって、知人とは遠くに位置しているのであるが、にもかかわらず他者が自発的に明らかにしたこと以上のことを知ることがしばしばある。相互作用とは、分別と、知らされることになっている以上のことを知ることの両方に依存するのである。
・ジンメルはまた別の形態である友人関係(friendship)について、それが完全な親密さと知識によって成り立っているという思い込みを否定する。そうしたものが欠如していることが、近代の差異化された社会における友人関係なのである。「おそらく近代人は、かつての意味における友人関係を維持するには多すぎるほどに、隠すべき物事を抱えている」。しかし、こうした留保はあるものの、それでも友人関係はいくぶんかの親密さを伴うものなのである。
・そして、普通はもっとも親密であると考えられる、すなわちもっとも秘密が少ないと考えられる形態である、結婚がある。結婚においては、相手にすべてを打ち明けたいという誘惑が存在するとジンメルは主張する。しかし、彼によればそうするのは間違いである。理由のひとつとして、あらゆる社会関係は、「一定の比率の真実と誤解」を必要とする。すべてを打ち明けることは、不確実な可能性をすべて取り去ってしまうのである。さらには、私たちが持つ内的な資源(internal resources)は限られているので、すべてを打ち明けることは、他者に提供できる(秘密の)宝物を減らしてしまうことになるのである。

 

  • 秘密についての他の思考(Other Thoughts on Secrecy)

・ジンメルは次に、秘密の機能、すなわちそれがもたらすよい帰結の分析に移る。ジンメルは秘密を、「人間のもっとも偉大な功績のひとつ」だとみなしている。具体的には、秘密はそれを知っている人々の間に、強固な「私たちという感情」(we feeling)を生み出す。高い地位はまた秘密と結びついている。上位の立場や優れた業績には、何らかの神秘的なものが存在している。
・人間の相互作用は、秘密とその論理的な反対語、すなわち密告(betrayal)によって形作られている。秘密は常に、それが明るみに出されるという可能性が、弁証法的に付随している。密告は2つの方法で生じる。ひとつは、外的に別の誰かが秘密を暴露することによってである。もうひとつは、内的に私たち自ら秘密を他者に打ち明けることによってである。「秘密は人々の間に障壁をもたらすが、それと同時に、うわさや告白によってそれを打ち壊したいという誘惑を作り出す」。
・ジンメルは嘘についてのアイディアと、近代における大規模な社会についての考えを結びつけている。ジンメルによれば、近代世界はかつての社会に比べて、誠実さ(honesty)により依存する。理由のひとつとして、近代経済がますます信用経済(credit economy)になっていることがある。すなわち、人々が約束したものを返済することの意志に依存するようになっているのである。また、別の理由として、近代科学においては、研究者は自ら詳細には検証できないような多くの研究結果に依存しているということがある。近代の科学者は他のすべての科学者の誠実さに依存しているのである。
・ジンメルは秘密と近代の貨幣経済の関連を論じている。貨幣によってかつてないほどの水準の秘密が可能になる。第一に、貨幣には「圧縮性」(compressibility)があるため、小切手をこっそりと渡すことで、他の誰にも気づかれることなく他者を金持ちにすることができる。第二に、貨幣の抽象性と質の違いがないという特徴は、「取引、獲得、所有の変化」といったものを隠すことを可能にする。第三に、貨幣はとても遠くにあるものに対しても投資を行うことを可能にし、取引を見えなくすることを可能にする。
・ジンメルはまた、近代世界において、公的なことがら、例えば政治に関するものは秘密性と近づきにくさ(inaccessibility)を失ってゆくと考えた。これに対して、私的なことがらはさらに秘密になってゆくのである。

 

批判(Criticisms)

・ジンメルは形態を強調することで何も存在しないところに秩序を課しているという批判についてはすでに触れた。また、彼は一方では社会構造を単なる相互作用の形態と見なし、他方では強制的で外的な相互作用と見なして、矛盾しているという批判もあった。また、ジンメルは文化の悲劇から抜け出す方法を提示しておらず、疎外を人間に本質的なものだと見なしているというマルクス主義的な批判もあった。
・ジンメルに対する批判でもっとも多いのは間違いなく、彼の著作がばらばらだということである。一貫した理論的なアプローチが存在せず、ばらばらで「印象主義的」(impressionistic)なアプローチであるという批判である。ジンメルのもっとも熱心な支持者であるLevineでさえ、「マルクス、デュルケーム、ヴェーバーと異なり、ジンメルの研究についての一貫した理論的フレームワークと主題を導き出そうとする者はほとんどいないだろう」と認めている。
・ジンメル主義者(Simmelians)はほとんどいないものの、ジンメルはしばしば、「アイディアの革新者であり理論の主導者」であると認められている。このことこそが、ジンメルが意図したものであった。結果として、ジンメルは、実証的な仮説を生み出す上での洞察の源であると見なされるようになっている。
・学生にとって、これまで挙げた古典理論家たちの原著に直接あたることは、訳書でよいので、重要なことである。マルクスの言葉における力とユーモアは、彼の理論の要約では消えてしまう。概略では、デュルケームの詳細な議論は曖昧になってしまう。ヴェーバーの悲観的な結論の背後に存在する、学問への楽観的な信仰は見過ごされてしまっている。ジンメルに直接触れることは特にすばらしいことだろう。「浮浪者」、「よそ者」、「秘密」などのジンメルのエッセイを選んで、あらためて調べて見ることの代わりになるものはないのである。