Veenhoven, Ruut. 2001. "Why Social Policy Needs Subjective Indicators." Social Indicators Research 58:33-45.
導入
- 社会指標の研究では、「客観的」アプローチと「主観的」アプローチの間に、長い論争がある。客観的アプローチは、「ハード」な事実、例えば所得が何ドルであるかや、住居が何平米であるかなどを重視する。これに対して主観的アプローチは、「ソフト」なことがら、例えば所得の満足度や、住居の適切さについての認識などを問題にする。客観的アプローチは社会統計学にルーツを持ち、その歴史は19世紀に遡る。主観的アプローチはサーベイ研究に根ざしており、1960年代に始まった。
- 客観的アプローチを擁護する人々によれば、社会指標は社会政策を導く役割を果たすものであり、かつ政策立案者は、(1)社会問題の実際の状態、および(2)これらの問題を解決する試みの効果についての情報を必要としている。この情報は、議論の余地のないもの、言い換えれば「客観的な真実」でなくてはならない。
客観-主観の区別
- 一見すると、「客観的」指標と、「主観的」指標の違いは明らかである。しかし、2つの異なる次元が存在する。
- 第一に、測定される内容の違いがある。客観的指標は、主観的な認知とは独立した物事に関わっている。例えば、本人が気づいているかどうかにかかわらず、腫瘍が体内に広がっているなど、客観的な意味で病気だと言える場合がある。
- 第二に、評価の違いがある。客観的な測定は、明確な基準に基づき、外部の観察者によって遂行される。
- 内容と測定の違いは重なりあうものではない。よって、これらの組み合わせによって、4つの類型が可能である。
心的なことがらに対する懸念
- 批判のうち一部は、実際的なものである。すなわち、主観的な評価は不安定であり、比較可能性がなく、理解が不能であり、ゆえに社会政策に対して役に立たないというものである。
- 人々の態度は時間とともに変化し、かつこの変化は現実の状態と関連が弱いと、異議を唱えられている。例えば、路上の安全についての考えは、実際に起きた強盗の発生率よりも、メディアによる過剰な宣伝に依存しているかもしれない。
- 主観的な評価は、個人間で比較できないとも主張される。例えば、人によって異なる基準が用いられるため、2人の個人が「とても満足している」と答えているにもかかわらず、その理由は異なっているかもしれない。
- さらに、主観的な評価の基準は時間によって異なる可能性もある。例えば、生活条件の大きな改善は比較の基準を上昇させ、不満の増大につながるかもしれない。この古典的な例は、1946-66年の間に黒人の解放が進んだにもかかわらず、その不満は増大したというものである。
- 同様に、主観的な評価は、異なる文化の間では比較ができないかもしれない。この例としては、「貧困」が挙げられる。
- 関連する批判として、主観的な評価に用いられる基準は、かなりの度合いにおいて間接的だというものである。人々は、「どの程度に」満足しているかはよく知っているかもしれないが、「なぜ」そのように思うかについては通常はあまり知っていない。この評価のプロセスは、きわめて複雑であり、部分的には無意識のものなのである。これは少なくとも、社会政策における問題の解釈においては問題である。
- 次に、より根本的な批判が存在する。これは、「医師万能(doctor knows best)」の主張である。
- 社会指標研究において意外であるのは、客観的な状態と主観的な評価の関連が弱いことである。例えば、実際の所得は、所得満足度とはそれなりの関連しか有しておらず、また全般的な幸福度とはほとんど関連していない。
- このような理由により、医者が患者の不満は無視すべきだと言うことがあるように、政策立案者は市民の評価は無視した方がよいという見方が持たれている。
- 主観的な評価には、持続的なパターンが見られるものもある。しかし、こうした場合には、主観的な評価は「虚偽意識」であると、しばしば覆される。古典的なマルクス主義者は、このことについてきわめて露骨である。
自己回答に対する懸念
- 客観的なことがらが自己回答によるものである場合には常に、妥当性の問題がある。これは特に、「健康」や「社会的威信」のように、明確に定義されていない概念において際立つものである。
- さらなる問題として、人々は何らかの考えを持っていたとしても、それを意識的に理解していないかもしれない。例えば、人種差別主義者はしばしば、自らの意見を認識していないのである。
- 信頼性の問題も存在する。自己回答は通常、あらかじめ用意された回答の選択肢に対してなされるものであり、その数は10を超えることはまれである。
- 系統的に回答が歪むという問題がある。所得、社会的威信、幸福度などは、望ましい方向にバイアスがかかるという結果も得られている。系統的な測定誤差は、特に社会的カテゴリーによって起こり方が異なる場合に問題である。
主観的指標の必要性
- 政治的な起業家は、必要な支持を動員するためには、人々が何を欲しているか(want)を把握しなければならない。さらに、もっとも意義ある目標を定めるためには、人々が実際に何を必要としているか(need)を理解しなければならない。
- 政治的なプロセスは、世論を適切に反映しているわけではない。それゆえ、政策立案者は目標を定める際には、追加的な世論調査を必要とする。特に、人々の不安、願望、満足についての調査である。
- 人々が何を欲しているかの表明は、実際の必要であるとは限らない。この例として、豊かな社会における物質的な願望が挙げられる。物質的な生活水準は驚くほど上昇したにもかかわらず、平均的な幸福度は同程度にとどまっている。
- この例から分かるのは、人々の必要が満たされているかどうかは、幸福度というもっとも主観的な指標によって測られるということである。
- 政策が成功しているかどうかの評価には、目標が達成されたかどうかの情報が必要である。これには、人々の態度についての主観的な測定と評価がなくてはならない。
- 政策目標の中には、客観的に測定可能なものもある。しかし、「健康」のように主観的な指標を必要とするものもある。医療の消費や、病気の発生頻度に基づくだけでは限界がある。寿命も健康という現象を完全に捉えているとはいえず、かつ長期的に見て初めて効果が現れるという欠点がある。
客観的指標はなぜ不十分なのか
- 主観的指標の必要性はまた、客観的指標の限界と比較して判断されるべきである。客観的指標は必要な情報に対して完全ではなく、また全体よりも細部に対する理解を与えるものである。
- 社会政策は、「所得」や「公衆衛生」などの客観的なことがらにのみ関わるものではなく、「信頼」や「安心感情」といった主観的なものにも関わる。こうした問題は複雑であり、物質的・心的なことがらが重なりあっている。
- 客観的指標は細部を評価する際には有用であるが、全体を示す上では不十分である。例えば住宅の質を評価する場合、客観的指標は、空間、証明、清潔さなどを数量化する上では非常に役に立つ。しかし、これらの側面についての得点は単に足しあわせても、意味のある全体的な住居の質とはならないのである。
- 政策立案者は、全体的なパフォーマンスについての指標を必要とする。現在でも、地域の「住みやすさ」や、国ごとの「生活の質」などの指標が存在している。しかし、これらの足しあわせによる得点は、次のような欠点がある。第一に、現在の政治目標になっているものなど、一部の項目のみが選択されがちである。第二に、測定が用意な側面に限定されている。第三に、すべての項目に同じウェイトが与えられることが多い。
- 足し合わせは、主観的指標においては、問題となりにくい。なぜなら、全般的な評価を直接に尋ねることが可能なためである。
結論
- 政策立案者は、客観的指標と主観的指標の両方を必要とする。生活満足度の全般的な評価は、政策が総合的に成功しているかどうかを判断し、また人々が何を欲しているかと何を必要としているかを区別する上で、とりわけ求められている。