羽田・苅谷(2017)「世界と大学。」

羽田正・苅谷剛彦,2017,「世界と大学。」『淡青』34: 3-7.

 

羽田 大学の話に戻しますと、日本語での教育をきちんとやると同時に、日本語の知の体系をどのように英語にして教え、理解させるかという点も重要です。東大がこれをうまくできれば、他大にはないアドバンテージになります。
苅谷 実は、私がオックスフォードの授業でやっているのはまさにそのためです。私の強みは圧倒的に日本語が読めること。英語の文献を使って日本のことを教える際、元の日本の現象や日本語文献との間にどんなずれがあるか、そのずれにどんな意味があるかは、重要なテーマとなります。そこを考えれば日本からの発想で何かが生まれることになる。日本の大学は英語の授業を増やそうとしていますが、単純に教員を外国人に置き換えたらいいわけではないですね。たとえば、母国語でも一種の異文化として接するようなセンスが必要です。

[pp.5-6]

羽田 自分の本を翻訳する際、このままだと日本人以外には通じないな、と感じることがあります。翻訳を前提に書くのと、翻訳を前提にせず書くのとでは、書き方が変わりますね。
苅谷 英語で書く場合でも論文と本では書くスキルが違うことも重要な点です。研究を正しく伝える論文と、一つの世界が映し出される本の差は、分野を問わずあります。英語論文の書き方と同様に、英語に翻訳される本のノウハウはある程度教えられるはず。そのプロデュース力が加われば、日本語で書かれた知の有効性はもっと強くなると思います

[p.6]

 

 大学ランキングでは外国人教員比率が重視される場合があるので、そうした面での国際化に向けて、しばしばドラスティックな改革目標が掲げられることがあります。

 しかし苅谷先生がおっしゃられるように、「日本語で蓄積された知識を適切に翻訳して伝えられる人材の増加」という意味での国際化は、やはり漸進的なものにならざるをえないのではないかと感じました。

竹内(2017)「日本型選抜の狡知と帰趨――『日本のメリトクラシー』増補版刊行にあたって」

竹内洋,2017,「日本型選抜の狡知と帰趨――『日本のメリトクラシー』増補版刊行にあたって」『UP』532: 1-5.

 

  増補版には補論がくわえられた。原著刊行1年前(1994年)に発表した論文「学歴社会論再考――伝統的アプローチと制度論的アプローチ」(北海道社会学会『現代社会学研究』7号)にいくらかの修正・加筆をほどこして、補章「学歴社会をめぐる伝統的アプローチと制度論的アプローチ」として収録した。この論文は、原著刊行当時、収録を迷って結局とりやめたといういわくがあったから、補論として収録できるよい機会となった。この論文も初出から20年以上経過しているが、社会学の分野の制度論的アプローチについては制度派経済学と比べて紹介されることが少ないので、社会学的制度論の概要を近代社会の学歴社会化という具体例の説明によって知ることで、読者にいくらかは裨益するところがあるのではないかと思っている。

[p.1]

 しかし、本書が扱っている近代のメリトクラシーの完成が過去の選抜文化の成熟形であるように、その崩壊も近代のメリトクラシーが孕んでいた矛盾の顕在化である面も大きい。生きる力やコミュニケーション能力、創造性などと新しい装いをまとって次々にあらわれるポスト近代型能力観も社会の人材需要の変化だけではなく、御破算型選抜規範の過激なあらわれとみられなくもない。近年の反知性主義やポピュリズム、反エリート主義なども、メリット(能力)をめぐる定義闘争(身分→学歴→真の能力)の段階からメリトクラシーとメリトクラート(エリート)そのものを転覆の対象にしはじめた最終戦の始まりとみることもできると……。

[p.5]

 これは増補版も買って勉強したいですね。

 

 以下、『日本のメリトクラシー』についての若干の自分用のメモです(最近読み返していないので間違った記述があるかもしれません)。ちなみに学部の頃に一度記事を書いていましたが、今読むと目を覆いたくなります。

 本書はキャリア移動と選抜システムの構造に焦点を当て、ローゼンバウムが論じた「トーナメント移動」に対比させる形で、日本型の競争をリターンマッチがありうる「御破算型選抜」として論じたことが特徴です。アメリカ社会における理論をそのまま当てはめるのではなく、日本社会の現実を説明する理論を志向している点は素晴らしいと思います。

 ただし、キャリア移動の分析の対象になっているのが、ある大手企業の内部昇進の構造であることが気になります。企業内移動を見る限りでは、たしかにリターンマッチが可能な選抜システムと言えるかもしれません。しかし、本書の分析の枠外に置かれている企業間移動も含めて見た場合には、むしろ山岸俊男先生がおっしゃられるように「セカンドチャンスのない社会」という面が大いにあるように思います。一企業内の事例を、日本社会全体に広げすぎているということはあるかもしれません。

山中伸弥・羽生善治・是枝裕和・山極壽一・永田和宏『僕たちが何者でもなかった頃の話をしよう』

 

僕たちが何者でもなかった頃の話をしよう (文春新書)

僕たちが何者でもなかった頃の話をしよう (文春新書)

 

 

 特に是枝監督の話が読みたくて買いましたが、すべての章が面白かったです。

 

 お招きしたのは、私がよく知っていて、しかも尊敬している方々ばかりであるが、この講演と対談で感じてほしいものは、決して彼らがいかに偉大であるかということではない。端的に言って、あんな偉い人でも、なんだ自分と同じじゃないかということを感じとってほしいというのが、この企画の意図であり、狙いである。

 彼らを天才と奉ってしまっては、それにあこがれたり、近づきたいという思いはたちまち萎んでしまう。なんだ、あんなに偉い人でも自分と同じ失敗や挫折を経験してきたのかと、また将来への不安や焦りも同じようあったのかと、その場で驚き、感じとってほしい。

[p.7]

 というコンセプトであると、企画の永田先生が「はじめに」で書いています。ただし、自分としては単に個々のエピソードや対話を面白く読んだという感じで、「なんだ自分とおなじじゃないか」という感想はあまり抱きませんでした。20歳前後の若者を対象にしていると見られる記述・発言が多く見られるので、自分もその頃に読んだとしたら、違った受け取り方をしたとは思いますが。

 

 「挫折経験」ということでは、是枝監督が初めてドキュメンタリー番組のディレクターを担当した際に、筋書きとは異なった反応が得られてしまい、筋書き通りに「やらせ」で喋ってもらおうとしたところ、カメラマンに怒られて思い直したという話が印象的でした。 

僕の予想と違う現実が起きてしまったとき、そこに本当のドキュメントが生まれるはずだった。それこそを撮るべきだったのに、僕は自分が敷いたレールから外れてしまったその部分は取らずに、「これはダメだ、これじゃ番組にならない」と、自分の敷いたレールのほうに番組を戻してしまった。そして、そのまま放送してしまいました。

[p.119]

 

 是枝 僕はこの仕事を始めたころ、なぜ撮るんだろうという、すごく根本的なことで悩んだことがありました。直接見ればいいじゃないか。見ているものをわざわざ映像に撮ることが、一次的体験ではなくて、二次的な体験に過ぎないんじゃないかとネガティブにしかとらえられなかったんです。けれども、自分で番組をつくるようになってわかったのは、「いや、普段僕ら、全然見ていないじゃないか」ということでした。見えていると思っていたものが見えていなくて、レンズを通してはじめてそれを意識できるようになる。それに気がついたとき、カメラを通して見ることがレベルの低い体験ではないとわかった。それで、この仕事が面白くなってきた。

[pp.138-9]

   昔とある授業で、ドキュメンタリー番組を秒単位で分解し、何がどういうアングルで映っており、BGMやナレーションがどのように入っているかを分析するという作業をやったことがありました。その時はまさに、普段は見ているつもりでも全然見えていないとを感じたことを思い出しました。

Giddens(1984=2015)pp.19-20

Giddens, Anthony. 1984. The Constitution of Society: Outline of the Theory of Structuration. Cambridge: Polity Press.(=2015,門田健一訳『社会の構成』勁草書房.)

 

 機能主義が社会科学において大きな重要性を持ち続けてきたのは,それが理論化の類型として卓越していたからだけではなく,経験的調査へと刺激を与え続けてきたからでもある.人類学のフィールドワークの起源は機能主義が与えた衝撃のほぼ延長線上にあり,また,社会学においても機能主義的思考に助けを受けておびただしい数の調査研究が生み出されてきた.たしかに,この点で機能主義の魅力を理解することは必要だと思う.だがそれでもやはり,概念という点で機能主義は大きな悪影響を及ぼしてきた.機能主義が強い調子で主張してきたのは,行為の意図せざる結果の意義である.なかでも,そうした結果が規則的に生じ,それゆえ社会的システムの制度的位相の再生産に関わっている場合には,その調子はいっそう強いものとなった.機能主義がこの点を強調したことは全く正しかった.だが,意図せざる結果の研究は機能主義的な概念を用いなくても十分に可能である.さらに,行為の結果に関して意図せざるものだけを明示するにしても,それを経験的研究が適切に把握するためには,行為の意図的な位相が必ず同定されていなければならない.ということはつまり,研究にあたって,機能主義的な前提へと心を傾けている者たちが通常考えている以上に,行為者性(agency)の解釈を洗練していかねばならない,ということなのである.

[pp.19-20]

 

青木(2014)pp.63-64,65

青木昌彦,2014,『青木昌彦の経済学入門――制度論の地平を拡げる』 .

 

第2章「制度分析の考え方」

  私はゲームの理論家ではなくて、ゲームの理論を使う立場にあります。そういう比較制度分析の立場からいえば、均衡が多数存在するということは困ったことではなくて、むしろ制度がなぜ多様にあるかということを説明するうえでは、たいへん好都合なことだと思います。
 ただし、多数の均衡があるとしたら、なぜ日本には日本型の均衡が生まれ、アメリカにはアメリカ型の均衡が生まれてくるのでしょうか。これはゲーム理論の内部では完全には説明しきれないわけです。そうすると、やはり歴史的な条件が重要になってきます。制度が重要である(institutions matter)ということは、同時に歴史が重要である(history matters)ということでもあります。

[pp.63-64]

タルコット・パーソンズ(Parsons)などの古い社会学の考え方では、社会的な価値があらかじめ存在し、人は生まれてから社会に入っていくと、家庭教育や学校教育を経てそれらの価値観を内面化していくと考えます。グラノベッターはそういう考え方を批判します。価値というものが人間から独立に、外部に存在すると考えるのは、古い社会学の欠陥です。そもそも、その起源を説明できないからです。規範とは、社会交換をつうじて生み出され、維持されるものです。一方で、新古典派の経済学は、経済取引において利己的な経済主体像を描きますが、これはこれで個人主義に過ぎる見方です。実際には、経済取引というのは、友人関係、取引関係そういう社会関係の網の目のなかに埋め込まれている(embed)わけです。そういう関係のなかで、人々は戦略的に行動していると考えられるのです。

[p.65]

 

Yin (1981) The Case Study Crisis: Some Answers

Yin, Robert. 1981. "The Case Study Crisis: Some Answers." Adminstrative Science Quarterly 26: 58-65.

 

 興味深かった箇所を中心に。

 

ケーススタディとは何か?

 研究戦略としてのケーススタディの際立った特徴は、(a)同時代の現象について現実生活の文脈に即した検証を試みることである。それはとりわけ、(b)現象と文脈の境界が明確でない場合に当てはまる。実験は意図的に現象をその文脈から引き剥がしている点において、ケーススタディとは異なる。歴史分析は過去の現象に限定されており、関連するインフォーマントに対して調査ができなかったり、関連するイベントが直接の観察ができなかったりする可能性があるという点で異なっている。

 

どのようにケーススタディを報告するか?

 典型的なケーススタディの報告は、予測可能な構造を持たない冗長なナラティヴであり、書くのも読むのも大変なものになっている。こうした落とし穴は、研究が明確な概念枠組みに基づいていれば、避けられる可能性がある。くわえてケーススタディのナラティヴは、 上述したNeighborhood Commission studyのように、 一連のオープンエンドの質問に対する答えに置き換えることができるかもしれない。これは提示するのがより容易であり、読者は支障なく望んだ情報を見つけ、テキスト全体をざっと読むことができる。あるいは、ケース間分析が主要な目的である研究の場合には、いかなる単一のケースの報告を行う必要もないかもしれない。こうした研究は、個別ケースの簡単な要約と、それに続くケース間分析によって構成されうる。
 Milesによって挙げられた問題の1つは、ケーススタディの結果に対するインフォーマントの反応である。インフォーマントの中には報告の内容に異議を唱える人々もおり、Milesは質問紙調査の結果を対象者が見た場合ならば、こうしたことは起こらないと主張している。しかしながら、この問題はケーススタディの使用に原因を求めるべきではない。それどころかMilesは、個別の証拠と集計された証拠に対する反応を混同している。実際のところ、質問紙調査の対象者が自分自身の回答の結果を与えられ、研究者によってこれらの結果がどのように解釈されたかを提示されならば、同じような反感が起きる可能性がある。対象者は、クローズエンドの質問であるために、過剰に単純化された回答を強制的にさせられたとか、研究者は単に回答の解釈を間違っているのだとか、不平を述べるかもしれない。逆に、ケース間分析の結果を確認するように求められた場合ならば、インフォーマントの反応は最小限のものとなるかもしれない。まとめれば、人々は個人化されたデータに向き合った場合には常に敵対的に反応するものであるものの、集計されたデータに向き合った場合にはより寛容になりやすいのである。こうした一連の反応は、ケーススタディ、質問紙調査、他の研究戦略のどれが用いられたかにかかわらず生じる。