Swift(2003)「機会を捉える――社会的非移動に対する選好とアスピレーションの影響」

 

Swift, Adam. 2003. "Seizing the Opportunity: The Influence of Preferences and Aspirations on Social Immobility." New Economy 10(4): 208-12.

 

  • 同じ著者の論文を、前にも1本まとめました。神島先生の政治哲学の本でも、本論文の著者の議論が紹介されていました。
  • 実証研究に従事していると、規範的な問いは直接的に議論しないし、前提に無自覚であることも多いので、こういう論文を読むのは楽しいです(すぐに何かに役立つというわけではないのですが)。
  • メリトクラシーを議論する上で、仕事と、それにともなう報酬を区別するというのは、なるほどと思いました。移動研究でよく議論されるOED連関でいうと、Dの中身を区別するということになりますね。

 

 

  • 政治哲学者は、道徳的な望ましさと政治的な実現可能性を注意深く区別すべきである;政治家は自らの選挙環境を一定程度は所与のものとして受け入れてその中で最善をつくす必要があるものの、そうした環境は変化するし、政治家がその変化に影響を与えることもできる
  • 労働党の新しい政策に関わった人々は、政策を選挙環境にあわせて調整するだけではなく、行動原則までも誤って変えてしまった;その例の1つが、機会の平等に関する不十分な理解に基づいたメリトクラシーの理念である
  • メリトクラシーとは、Michael Youngによってもともとつくられた用語であり、ユートピアではなくディストピアを表現するためのものであった;メリトクラティックな社会は、その成員に対して社会的公正を保障することは確実にないと言える
  • ある社会がメリトクラティックであるかどうかの問い方の1つは、仕事とそれに従事する人々が適合しているかである;人々は縁故や階級的背景ではなく、能力に基づいて仕事を得ているか(これは教育制度に関して問うことも可能であり、つまりトップの大学はメリットに基づいて選抜を行っているかという問いにもなりうる)
  • メリトクラシーについてもう1つの観点は、仕事の配分原理ではなく、資源と報酬の分配原理を問うことである;メリトクラシーの支持者は、報酬がメリットを反映すべきであると主張する;ここで「メリット」とは、能力とコミットメントの何らかの組み合わせとして理解される(Youngは「IQ」+「努力」として定義した)
  • こうした2つの解釈を混ぜ合わせることは一般的である;すなわち、メリトクラティックな社会とは、効率的であるとともに公正であるとされる
  • これは政治的に便利で魅力的なパッケージである
  • しかしどのような意味において、より能力のある人々はより報酬を受け取るに値するのだろうか
  • 2人の子どもがいる親を想像してみよう;片方の子どもは並外れて才能があり、もう片方の子どもは学習に困難を抱えている;この2人の子どもが生涯にわたって劇的に異なる資源を分配されるときに、社会はこれを公正とみなすべきなのか
  • 私は、誰がどのような仕事を得るべきかという意味でのメリトクラシーには賛同するし、社会的背景にかかわらず能力を発達させることの重要性にも賛同する―というのも、これはより生産的なことであり、能力の高い人々によって行われることで、その生産物から誰もが利益を得るからである
  • しかし、そのことは能力に応じて生産物を分配されるべきということにはならない;公正な社会、生産物をかなり異なった形で分配するだろう
  • メリトクラティックな機会の平等は、効率的な生産手段としてはきわめて価値があるものの、分配の指針とはならない
  • 社会的公正は、親の社会的地位とその子どもの社会的地位が無関連であることを要求するという考えは魅力的であるかもしれない;これは社会学者が「完全移動」と呼ぶものである
  • 機会の平等の支持者は、相続税を増加させることや、私立学校の廃止、あるいは異なった社会的背景を持つ子どもの混ざった学校をつくるためにバスを走らせることには、根本的な道徳的問題を感じないだろう
  • しかし、裕福な親の子どもが裕福となるのには、別の理由もあると考えられる:文化、性格、アスピレーションの伝達である
  • 私立学校を喜んで廃止しようとする人々は、子どもが寝る前の本の読み聞かせを制限することには、それほど熱心にはならないだろう;それは仮に、私立学校に通うよりも本の読み聞かせが子どもに対してより強い影響を与えるとしてもである
  • 家族間の正当な相互作用は、不平等な結果を生み出す傾向にある;しかし、食卓での会話を通じて子どもの成長を促すことの自由を否定するような社会は、仮にそれがより機会の平等をもたらすとしても、公正な社会とは言えないだろう
  • 大部分の人々は、さらなる子どもの利益のために親が行動することは、他の子どもにくらべた比較優位を追求することであるとしても、正当であると考えるだろう;もしこれが正しいのならば、そうした行為は尊重するように義務づけられるだろうし、比較優位を伝達することを促進するような制度も許容しなければならないだろう
  • これは私が共有する見方ではないものの、「家族の価値観」に対する非常に異なった理解は、依然として世代を通じた有利さの伝達を許容することになる
  • 移動研究は出自が異なった人々の「機会」の分配について議論するものの、通常は「結果」に関する情報しか得られない;しかし、統計的確率という意味での可能性(chance)は、機会(opportunity)という意味での可能性とは異なる;社会的公正の観点から重要となるのは、機会としての可能性であり、そこでは機会セットが重要となる
  • 社会的非移動を起こすメカニズムとして、選択と選好の役割は過小評価されている;選好がどこから来るのかや、選好が信念と資源と結びついてどのように選択を生み出すのかを、より理解する必要がある