『帰ってきたヒトラー』

 

http://gaga.ne.jp/hitlerisback/

 

 原作の小説が面白いと同僚に教えてもらっていて、気になっていた作品です。なかなか時間が取れず、そろそろ上映が終わってしまうかなと思っていたのですが、池袋シネマ・ロサで新たに公開が始まっていました。

 実際のニュース映像にくわえて、ドイツの各地でゲリラ的に撮影した映像が用いられています。「道端を歩いている人々の前に、ヒトラーが突然現れたらどのような反応が起きるのか」を問うた、実験的な手法とも言えます(ある映画情報サイトでは、「セミドキュメンタリー」という表現が用いられていました)。しかも、人々からは好意的な反応がかなり見られるという結果です。

 さらに、劇中劇というスタイルが採られることで、現実とフィクションの区別がつかなくなってゆくような、奇妙な感覚に陥りました。一方で、認知症を患っており、それまでは問いかけにも答えなかったユダヤ人のお婆さんが、「みんな最初は笑っていた」と鬼気迫る様子でヒトラーにまくしたてるシーンにおいては、突如として(歴史的な)現実に引き戻されました。非常にタブーの多い領域にもかかわらず、なんとも絶妙なバランスの上に成り立っている作品だという感想です。

 原作は一人称のスタイルで書かれているようなのですが、映像化されることで、周囲の人々がどのようにヒトラーを受容してゆくのかという、外部的な視点がより描かれるようになったのかもしれません。そして、観客自身もこの作品が問うているテーマに、より向き合わせられることになっているのではないかと、推測します。

『父親たちの星条旗』


  2006年公開の、クリント・イーストウッド監督による映画です。太平洋戦争において多くの死傷者を出した、硫黄島の戦いをモデルにした映画であり、アメリカ側の視点から描かれたものです。日本側の視点から描かれた姉妹作である、『硫黄島からの手紙』も、4年ほど前に観ました。クリント・イーストウッドの映画からは、並外れた衝撃を受けるということは正直なところないのですが、常に安定して観られる面白さがありますね。

 クリント・イーストウッドの映画は、アメリカの保守的な価値を体現しているところが結構あると思うのですが、同時にそうした価値を揺さぶるようなテーマも描かれます。たとえば、『ミリオンダラー・ベイビー』における安楽死であったり、『ミスティック・リバー』における小児性愛であったり、『グラン・トリノ』における人種的マイノリティとの関わりであったりなどです。

 本作で言えば、「アメリカを勝利に導いた英雄」という価値が揺さぶられることになります。一枚の写真が戦争への士気を大いに高めたにもかかわらず、写真の中の当事者たちはごく普通の兵士であり、「英雄」というシンボルだけが肥大してゆきます。本来は、戦死した同僚たちこそが称えられるべきだと、彼らは自問します。

 マックス・ヴェーバーによれば、カリスマ的な権威は指導者の特徴よりも、信奉者の集団の性質に依存します。本作における「英雄」も、当の兵士たちの資質によるものではなく、そうした価値求める周囲の人々が定義することにより生み出されたものと捉えることができそうです。

『プレステージ』


  2006年に公開されたクリストファー・ノーラン監督の映画です。前に一度観ていて、今回が2回目でした。ストーリー全体に伏線が散りばめられているので、2回以上観てはじめて真価を味わえる映画かもしれません。

 「観客は何も見ていない。何も知りたくない。騙されていたいのだ」というナレーションが出てくるにもかかわらず、視聴者は舞台裏を突きつけられるという逆説的な構成になっています。マジックを完成させるために、人生を犠牲にする2人の天才の狂気には、ただ圧倒させられます。結末において、「知らないほうがよかったかもしれない」という感覚に陥らせられる点は、同監督の『インセプション』とも共通するところがあると言えるでしょう。

 

『海よりもまだ深く』

 

 http://gaga.ne.jp/umiyorimo/

 池袋シネマ・ロサで観てきました。

 

 「大人になれない大人」というテーマは、これまでの是枝映画においても何度も描かれてきたテーマの一つです。しかし、これまではあくまで「機能不全の家族」の一つの要素として扱われてきたという印象です。またすでにそこにあるものとして、なぜ「大人になれない大人」がいるのかということ自体はあまり問われてこなかったかもしれません。本作では、阿部寛が演じる主人公の子ども時代からの過程を追うことによって、深く掘り下げられた主題となっています。

 これまでの是枝映画とくらべて、固有名詞の使用が多いと感じます。たとえば、「カルピス」であったり、「モスバーガー」、「ミズノの野球スパイク」などであったりです。こうした手法によって、「西武線の清瀬団地」というローカルさ、すなわち「固有名詞とは切り離せない人々や社会」がより浮き彫りになっています。

 そして、すでに是枝監督の映画にはなくてはならない存在になっていますが、今回も樹木希林の演技がすばらしいとしか言いようがありません。夫をすでに亡くし、この団地で生涯を終えるであろう境遇の女性ですが(しかも冒頭では別の部屋で孤独死が最近あったことが話題になっている)、悲哀というよりもむしろ、力強くユーモアに満ちた姿を見事に演じています。

 

コールマンによる経済学の問題点(Swedberg 1998=2004)

Swedberg, Richard. 1998. Max Weber and the Idea of Economic Sociology. Princeton, NJ: Princeton University Press.(=2004,泉田渉・柳沢幸治訳『マックス・ウェーバー――経済と社会』文化書房博文社.)

 

 ウェーバー流の取り組み方と現在の社会学が概ね折り合いがつくと思われる真に重要な点の一つは、経済分析の一定の分野を改良するためには社会構造を経済分析に取り入れる必要があるというものである。ウェーバーの経済社会学自体は、この方向への訴えを読んでよいし、この問題は現在の経済社会学の中心ともなっている。たとえばジェームズ・コールマンは、1983年のアメリカ経済学会の年次総会で、孤立した行為者という暗黙の前提が変わらない限り、経済学のこれ以上の進歩は不可能だろうと論じた。コールマンによれば、「経済学は、経済分析が当てにする社会的前提のおかげで、社会理論において重要な進歩を遂げるに至ったが、今後の発展は、こうした前提を修正するか捨て去ることにあると(私はあえて)提言したい。」
[pp.221-222]

 

Stataのusespss(adoファイル)についてもう少し

 以前に、Stataのusespssというadoファイル(Win64bit版)について、若干書きました。変換後に、しばしば日本語の変数ラベルが文字化けすることがあったのですが、SPSS側の保存形式が関係しているかもしれません。古いヴァージョンのSPSS形式(今回はSPSS7.0)でデータを保存しなおした後に、usespssを用いてdtaファイルに変換すると、うまく行く場合があることを確認しました。

 なお、Stata13で作業しました。14は日本語対応が進んだらしいので、事情が違うかもしれません。

コールマンによるデュルケームの捉え方についてのメモ

 先輩から質問をいただいた関係で、ちょっとだけ調べたことをメモ書きしておきます。コールマンが『社会理論の基礎』において、デュルケームに言及している箇所はいくつかあるのですが(ちなみに邦訳だと索引が不十分)、特に「第10章 効果的な規範に対する需要」における記述が重要であるように思われます。 

 社会科学における他の概念と同様に、規範は社会システムの特性であって、そのなかの行為者の特性ではない。この概念は、社会科学者たちが展開している理論のなかで、かなり幅広い役割を担うようになっているが、それには根底的な理由がある。規範という概念は、マクロ水準に位置しながらミクロ水準の個人行動を支配するものなので、所与の社会システムにおける個人行動を説明するための便利な道具となるのである。エミール・デュルケムを代表とし、ソローキン(Sorokin 1928)が社会主義学派とみなしている学派に属する社会学者たちにとって、この道具はとくに有用であった。デュルケムは社会組織論に着手した際に、その著書のなかで、「個人の行動は、その人が身をおいている社会システムからどのような影響を受けるのか」という問いを立てている。この問いに答えるためには、第1章で概説した社会理論の三要素をすべて考察する必要はなく、ただ一つの要素――マクロからミクロへの移行――の考察だけが求められる。デュルケムを含む多くの社会理論家たちにとって、規範という概念は、この移行の一つの手段となったのである。

[『社会理論の基礎』(上),久慈利武監訳,p.372]

  デュルケームにとって、規範を含めた「社会的事実」は、個人を超えたものであり、かつ個人を「もののように」外在的に拘束するものです。コールマンはマクロ→ミクロの関係を考察する上で、デュルケームのこうした立場は、自身のモデルにおいても採用可能と捉えているように見えます。

 なお、合理的選択理論の中には、規範という概念自体が不要と考える人々もいます。しかし、コールマンにとっては規範は、人々の行為を説明する上で重要なものであり、かつ存在することを自明視してはならないものだったようです。