Ritzer and Stepnisky. 2013. Sociological Theory 9th Edition. Chapter 3. "Emile Durkheim". pp.76-84.

Ritzer, George and Jeff Stepnisky. 2013. Sociological Theory 9th Edition. McGraw-Hill.

 勉強会用に作った資料ですが、こちらにもアップロードしてゆきます。

 

  • 導入(Introduction)

・デュルケームの研究には、主に2つのテーマがある。第一に、個人に対する社会の優越である。第二に、社会は科学的に研究ができるということである。どちらも今日まで議論が分かれるものであり、それゆえにデュルケームは今日でも意義を持っている。 ・デュルケームは社会学が、19世紀のフランスにおいて着想の段階として生まれたと考えていた。そして、この着想を明確に定義された学問分野として確立したいと思っていた。 ・19世紀の後半にはまだ、大学において社会学の学部もなく、教授もいなかった。心理学や哲学などの既存の分野からは、社会学という新たな分野を作ろうとすることに対して、強固な反対があった。 ・哲学と区別をするために、デュルケームは社会学は実証研究(empirical research)への志向を持つべきだと主張した。しかし、社会学の中には哲学的な学派がいるとデュルケームは考えていたため、状況は複雑であった。自分自身を社会学者であると考えていたコントとスペンサーは、抽象的な理論化により興味を持っていた。コントとスペンサーによって示された方向に行き続けるならば、社会学は哲学の一部門にしかならないだろうとデュルケームは感じていた。

 
  • 社会的事実(Social Facts)

・哲学とは違った明確なアイデンティティを社会学に与えるために、デュルケームは社会学の固有の研究主題は、社会的事実であるべきだと提案した。簡潔に言えば、社会的事実とは行為者にとって、外的かつ強制的な、社会構造・文化的規範(norms)・文化的価値(values)のことである。例えば、学生は、大学の官僚制という社会構造や、大学教育を重視するようなアメリカ社会の規範と価値に束縛されて(constrained)いる。 ・社会学を哲学と区別する重要な発想は、社会的事実は「物」(things)のように扱われ、実証的に研究されるべきだというものである。これは、社会的事実の研究は、人間の精神(minds)の外からデータを入手し、観察と実験によって行われなければならないということである。 ・デュルケームは社会的事実を2通りに定義したことに注意が必要である。第一に、社会的事実は内的な衝動(internal drive)ではなく、外的な拘束(external constraint)として経験される。第二に、社会的事実は社会を通じて一般的なものであり、特定の個人に付与されるものではない。 ・デュルケームは、社会的事実は個人に還元(reduced)できるものではないが、個人にとっては現実感をともなったものとして研究されなければならないとした。もし社会的事実が個人から説明できるものだとすれば、それは社会学を心理学に還元することになる。そうではなく、社会的事実は別の社会的事実によってのみ説明可能なものである。以下では、分業や、あるいは自殺率が他の社会的事実によって説明されるというデュルケームの研究をみてゆく。 ・デュルケームは、社会的事実の例として、法的基準(legal rules)、道徳的義務(moral obligations)、社会慣習(social conventions)などを挙げている。また彼は言語を社会的事実だとしており、これは簡単な例で理解が可能である。第一に、言語は実証的に研究されるべき「物」である。言語がどのようなルールに従い、またどのような例外があるのかは、実際の言語の使用を研究しなければならない。第二に、言語は個人にとって外的である。個人は言語を使用するが、言語は個人によって定義されたり、作り出されたりするものではない。第三に、言語は個人に対して拘束力を持つ。例えば、同性のパートナーどうしはお互いの呼び方について困難を感じる。最後に、言語の変化は他の社会的事実によってのみ説明可能であり、個人の意思によっては決して説明可能なものではない。

 

  • 物質的/精神的社会的事実(Material and Nonmaterial Social Facts)

・デュルケームは、社会的事実を広く2種類に区別した。物資的社会的事実と精神的社会的事実である。物質的な社会的事実とは、建築の様式、技術の形態、法典(legal codes)などであり、2つのうちより理解がしやすい。なぜならば、直接に観察が可能だからである。 ・デュルケームの研究の大部分と、彼の社会学の中心は、精神的社会的事実の研究にある。社会学者が規範、価値、さらに一般的には文化と呼んでいるところのものは、デュルケームが精神的社会的事実だと意図したもののよい例である。しかし、この考えは問題を生み出す。規範や価値といった精神的社会的事実は、なぜ行為者にとって外的なのか。それらは行為者の心の中以外にどこで見出されるというのか。そして、それらが行為者の心の中にあるとすれば、それらは外的なものではなく、内的なものではないのか。 ・デュルケームは精神的社会的事実は、一定程度には個人の心の中に見出されるものだということを認めていた。しかし、人々が複雑に相互作用をするようになると、その相互作用は独自の基準に従うようになる。社会は個人によって構成されているが、デュルケームにとっては「社会とは単なる個人の集積ではない」ものであった。人々の相互作用は、独自のレベルの現実を持つ。これは、「関係的実在論」(relational realism)と呼ばれる。

 

  • 精神的社会的事実の類型(Types of Nonmaterial Social Facts)

道徳(Morality)
・デュルケームは広い意味で、道徳についての社会学者であった。デュルケームの道徳についての見方には、2つの側面がある。第一に、彼は道徳を社会的事実であると考えていた。第二に、彼の研究は近代社会の道徳的な「健康」(health)への関心に突き動かされていた。
・第二の点については、さらなる説明を要する。デュルケームは社会が非道徳的なものになりつつあると考えたわけではなかった。デュルケームにとって道徳とは、社会によって特定される(identified)ものであり、社会は非道徳的なものにはなりえない。しかし、もし社会が人々の集合的利害(collective interest)が自己利害(self-interests)の単なる寄せ集めになってしまったら、社会はその道徳的な力(moral force)を失ってしまう。デュルケームは社会は強固な共通道徳を必要とすると信じていた。
・デュルケームの道徳への関心は、彼の「自由」(freedom)についての興味深い定義に関連している。彼は人々の道徳的な結びつき(moral bonds)が、「病理的な」(pathological)ゆるみの危機にあると考えていた。この道徳的な結びつきがないと、人々はとどまることのない情動(insatiable passions)が拡大することの奴隷になってしまう。人々は情動によって、欲求の充足に熱狂的に駆り立てられるが、ある欲求を満たしてもさらなる欲求の拡大に至るのである。よって、デュルケームは、人々が自由であるためには、道徳と外的な抑制が必要であるという、一見すると逆説的な考えを持っていた。

集合意識(Collective Conscience)
・デュルケームは、彼の共通道徳への関心について、様々な方法と様々な概念によって扱おうとした。初期の研究において、彼は集合意識という発想を展開した。フランス語では、conscienceという単語は、「意識」と「道徳的な判断力」の両方を意味する。デュルケームによれば、集合意識とは「同じ社会に属する平均的な市民に共通する信念(beliefs)と感情(sentiments)の総体(totality)であり、それ自体の生命を有する決定論的なシステムを構成している」。この定義から、デュルケームは集合意識が他の社会的事実とは独立したものであり、かつ他の社会的事実を決定することができると心に描いていたことがわかる。
・集合意識とは、共有された理解(shared understandings)、規範、および価値の一般的な構造に注意を向けるものである。デュルケームはこの概念を用いて、「原始的な」(primitive)社会はより強い集合意識を持っていると主張をした。

集合表象(Collective Representations)
・集合意識とは広く、はっきりしない発想であったので、直接に研究することは不可能であり、関連した物質的社会的事実を通してアプローチすることが必要であった。この制限に不満を持ったデュルケームは、後期の著作ではあまり使わなくなり、代わりに「集合表象」というより具体的な概念を好むようになった。フランス語のrépresentationは文字どおりには、英語ではideaを意味する。デュルケームは集合的な観念(collective concept)と、社会的な「力」(social force)の両方を表すために、この用語を用いた。集合表象の例は、宗教的なシンボル、神話、民間伝承(popular legends)である。これらはすべて、社会が自らを省みる方法である。
・集合表象もまた個人には還元できない。なぜならば、社会的な相互作用から生まれるからである。しかし、集合表象は集合意識よりも直接に研究がしやすい。なぜならば、旗、偶像、絵などの物質的なシンボルや、儀式などの習慣に結びついていやすいからである。

社会的潮流(Social Currents)
・デュルケームが挙げた社会的事実の例の多くは、社会的な組織(organizations)に関連していた。しかし、まだ結晶化(crystallized)されていない形で現れる社会的事実もあることを明らかにした。これらは「社会的潮流」と呼ばれる。彼は例として、公共の集会で生じる「熱狂(enthusiasm)、憤激(indignation)、憐憫(pity)などの大きな感情の動き」を挙げている。社会的潮流は他の社会的事実と比べて確固としたものではないが、個人には還元できないのでやはり社会的事実なのである。
・これらの精神的でつかの間の(ephemeral)社会的事実が、強固な制度にも影響を持つことはありえる。Rametは、ロックコンサートにおける群衆がつくり出した社会的潮流が、東ヨーロッパの共産主義政府から脅威とみなされ、また実際にその崩壊に貢献したということを伝えている。
・しかし、社会的潮流の概念はいくつかの問題をもたらす。特にやっかいなのは、一連の独立した社会的潮流が、社会の真空(void)の中をただよっているかのように、社会的世界を駆け巡っているという発想である。この問題によって、デュルケームは多くの研究者から、集団心理(group mind)志向を持っていると批判されてきた。
・社会的潮流は、集団の成員に共有された、一連の意味であると見ることができる。よって、特定の個人の心理で説明することはできない。社会的潮流は間主観的に(intersubjectively)のみ説明ができるものなのである。