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ジョン・R・サール『行為と合理性』

メモ

なかなか読み進まない。
面白いが、これを専門でやろうとはとても思えない。やはり自分には哲学は向いていない。



「合理性の理論に期待すべきことについて、知的な人びとが二つの誤りを犯し続けていることに私は気づいた。私はここで最初にそれらの誤解を払拭しておきたい。まず、合理性の理論は合理的な意思決定のアルゴリズムを与えるべきだという考えを、多くの人が持っている。」[v]
「合理性に関して人びとが犯す第二の誤りは、もし合理性の基準が普遍的なものであり、しかもわれわれがみな完全に合理的な行為者であったならば、意見の不一致などなくなるだろうと考えることである。」[v]


「すなわち、サルの合理性とは違って、人間の合理性の場合には、行為への理由の中に、何らかの欲求を満たすことに尽きるようなものと、欲求に依存することのないものとを区別しなければならない。」[7]


「合理性のはたらきは、それに基づいて私が意思決定を行う志向的状態と、実際に行われる意思決定とのあいだに飛躍のあることを前提とする。すなわち、そのような飛躍の存在を前提しなければ、私は合理的な意思決定の過程を開始することができないのである。」[14]


「合理性が存在しうるのは、不合理性が可能なときにかぎられる。たんなる純粋な知覚の場合には、合理性もなければ不合理性もない。合理性や不合理性は、飛躍が存在するときにのみ、すなわち志向的現象の存在だけではその結果を引き起こすのに十分でない場合にのみ、入り込んでくる。それは、何をするか、何を考えるか、あなたが自分で決めねばならないような場合である。」[26]


「実践理性についての著作では、信念に対する真理にあたるものが、意図的行為に対しては何であるか探し求める試みがよくみられる。これが絶望的な試みであることは、これまでに述べたことだけからも十分にわかるだろう。信念は充足条件をもつ志向的状態であり、その条件が充足されれば、信念は真であると言われる。信念は、心から世界への適合の向きを持つ。これに対して、意図的行為は二つの構成要素からなり、それは行為内意図と身体運動である。行為それ自体には、充足条件は存在しない。」[62]


「飛躍には、同値な二つの記述が可能である。そのひとつは前向きであり、いまひとつは後ろ向きである。前向きに見ると、飛躍とは、意識的な意思決定や行為の特徴で、われわれの正体の意思決定行為にはさまざまな選択があり、因果的にはそのいずれをもとりうると感覚されることである。後ろ向きに見ると、飛躍とは、意識的な意思決定や行為の特徴で、意思決定や行為に先立つ理由は、意思決定や行為の因果的十分条件をなすものとして行為者に経験されるのではないということである。」[64]


「自らの行動の説明にはきわだった特徴があり、自分の行為への理由を述べることでふつう与えるような説明は、因果的説明として十分ではないのである。それは、現に生じたことが生じねばならなかったことを示すものではないのである。」[72](太線部は訳書では傍点)


「時間の概念を導入したことによって、われわれにはつぎのことがわかる。すなわち、行為における合理性とはつねに、現在あるいは将来何を行うかについて、行為者が自由の前提でもとで、時間の中で意識的に推論を行うことである。」[95]