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Xie (2005) "Methodological Contradictions of Contemporary Sociology"

Xie, Yu. 2005. "Methodological Contradictions of Contemporary Sociology." Michigan Quarterly Review 44:506-11.

 ほぼ全訳してみました。論文中に出てくるHorowitzの批判というのは、アメリカ社会学ではけっこう大きな影響を持ったのでしょうか。実証研究をやる身としては、「定量的方法をはじめとする社会学の方法論における欠点にたいして、脅威を感じる必要はなく、むしろ研究デザインを改善するための挑戦とみなすべきである」という本論文の主張は、勇気づけられるメッセージになっていますね。

 

 「現代社会学における文化的矛盾」という小論において、Irving Louis Horowitzは社会学の暗い姿を描いた。彼が描いたものは次のようである。(1)社会学は、知的な焦点や厳密さを失ってしまい、例えば刑事司法などの応用的な領域に社会政策における議論を奪われてしまった。(2)社会学は、学問に対する誠実性よりも、政治的なイデオロギーを優先させる政治活動家にとっての安息の地となってしまっている。(3)過激なリベラルマルクス主義のイデオロギーと一致して、社会学は自らを主流の社会から疎外させ、公衆に対する正統性と信頼を失ってしまった。

 公平に見て、Horowitzはある程度に妥当な見方をしている。社会学者の中には、社会を理解することよりも、リベラルなイデオロギーにより関心がある者がいる。政治領域における社会学の影響は限られている。他の社会科学の研究者から見て、あるいは好意的な社会学者から見てさえも水準の低い社会学の研究も多く存在する。ほんのこうした事実でさえ、私を含めて社会学を専門とする者すべてを悩ますには十分である。
 しかしながら、私は社会学者であることに誇りを持ち、また情熱をそそいでいる。アカデミックな社会学者として、私は常に自らの教育と研究において、ばらつき(variability)の重要性を強調してきた。このようにばらつきを強調することは、Charles Darwinに遡ることができる。実際のところ、現代の社会学は第一にばらつきに関心を持つべきだと言える。社会現象と人間の行為は、きわめて多様であるため、注意深い実証研究は単純な描写を拒む。社会学という分野自体が同様に多様である。社会学が扱うトピック、方法、アプローチはあまりに異質なものからなるため、いかなる全面的な特徴化をしようとも、せいぜいのところ誤解を招くものにしかならない。
 社会学がばらつきを持っている3つの主要な次元を見てみよう。第一に、多くの専門化した領域が社会学にはある。アメリカ社会学会には43のセクションがあり、国際社会学会には53の研究委員会がある。社会学の多様性は、これらのセクションや研究委員会の名前のいくつかに現れている。それらは、「動物と社会」、「感情」、「人口」、「芸術」、「余暇」、「スポーツ」などである。私はこれらのほとんどにおいて専門家ではないものの、人口学がその方法と研究のスタイルにおいて、上記の分野とは異なることを理解できるほどには、人口学について知っている。社会学は、多くの下位分野を持つ、あまりに広すぎる学問分野である。下位分野のいくつかは、互いにあまりに異なっているので、共通の特徴を見つけようとすることは無意味である。私たちは単に共に生きる方法を学べばよいのであるし、また可能な場合には、社会学の歴史的発展から生じた知的な多様性を有効に活用すべきである。
 第二に、それぞれの専門化した領域の内部においても、大きな質のばらつきが見られる。特に人口学、組織的行動、社会的不平等、経済社会学、教育、人種、ジェンダー、家族の分野においては、第一級の多くの社会学者による素晴らしい研究が生み出されてきた。しかしながら、世に出ている社会学の研究の中には、非常に質の低いものがあることもまた事実である。Horowitzはこの現象を、社会学が学問的な厳密性を保つ上で、リベラルなイデオロギーに夢中であることに原因を求めている。これがどの程度に真実であるかは私にはわからない。しかし、これが普遍的、あるいは研究に重点を置いている主要な社会学の学部において広く見られることだとは思えない。質の低い社会学の研究が生まれることについて、私は別の説明を提示する。それは、多くの社会学者が研究の方法論に関して、十分な訓練を受けていないためである。その結果として、ある種のもっともらしそうな主張を支持するために、時として経験的証拠を「拡張」する必要性を感じるのである。
 最後に、個人レベルのばらつきが常に存在する。社会学者は同一の肩書を持っていたり、あるいは同一の学部で働いていたりしてさえも、何が最上の社会学を構成するのかについて、同一の見解を共有してはいないかもしれない。同一の社会学者が時が経つにつれて考えを変えることもあるかもしれない。このことを私たちは憂慮すべきだろうか。答えはノーである。人間の歴史はよいアイディアよりも、悪いアイディアをはるかに多く経験してきた。私たちが研究を評価する上で健全な判断をする限りにおいて、未熟なものも含めて、多様な研究成果を容認することができるのである。長期的にみれば、社会学の内外の研究者は、よい研究を受け入れ、悪い研究を拒否することになるだろう。私たち社会学者は自らが研究で遂行できることに集中し、評価は他者に任せよう。
 Horowitzが社会学に矛盾があると述べたことは正しい。しかしながら、文化的矛盾はどこにでも広く見られるものであり、社会学に特有なことではない。私の見解では、社会学においてもっとも明らかであり、もっとも必然の矛盾は、方法論的な矛盾である。社会学は異なる方法論的アプローチによって、主にわかれている。Horowitzが指摘したように、社会学では「実証主義」にたいする反発が存在してきた。しかし、「実証主義」がこれらの批判においてどのように扱われているかを見れば、用語の厳密な意味が完全に欠落している。反実証主義者の持つ感情は、数的な情報や統計的方法に対する不信から、現代の計量社会学にたいする単なる無知まで、広く及んでいる。イギリスの社会学である、John Goldthorpeは次のように述べている。

 [社会科学としての社会学]にたいする表出的・批判的社会学の提唱者による攻撃は、当然のことながら、一様に「実証主義」に集中している。しかしながら、「実証主義」が何を意味しているのか、またなぜそれが好ましくないといえるのかについては重大な差異が見られる。そして、こうした攻撃においてみられる数少ない共通した要素の一つは、定量的方法を否定することであり、またデータの収集及び分析におけるいかなる種類の体系的、合理的、透明な手続きをも否定することであるように見える。

  単純な事実は、定量的方法は完璧ではないということである。実際、社会と社会関係を研究するために生み出されたすべての方法論には、限界があることがわかっている。こうした欠点にたいして、真摯な研究者は脅威と感じるべきではない。むしろ、社会的世界を理解する上での、私たちが継続的な努力を向けるべき挑戦なのである。残念ながら、多くの人々はこの挑戦に向き合うことを拒否し、ひねくれた相対主義の立場を頼ってしまっている。すべての方法には長所と短所があるため、一つの方法の流派を特権的に扱うべきではない。このように特権化する立場が間違っていることを理解するためには、計量的社会学が実際に行っていることは何かを理解する必要がある。

 他の誰にもまして、亡きOtis Dudley Duncan(1921-2004)は今日の計量社会学に貢献した。模範的な社会階層、社会人口学、統計的方法論における研究にくわえ、Duncanの影響は社会学における新たな知的伝統を確立したことにある。初期の社会学者には、社会学を物理科学になぞらえてモデル化しようとした者もいた。しかし、Duncanは物理科学を模倣して社会の普遍法則を探し求めることにたいしては、露骨に軽蔑した。Duncanによる計量社会学の新しいパラダイムの中心的な教義は、経験的現実を最重要とみなすものだった。計量的な手段は、すべての個人の行動を記述あるいは説明するような普遍法則を発見するために用いられるべきものではない。むしろ計量分析は、一時的にグループ内の差異を無視することで、グループ間の差異の経験的パターンを要約するものなのである。長い時間をかけて、社会科学者は自らの分析により複雑性をくわえてゆくことで、世界の理解を深めることができるのである。
 こうした新しいアプローチは、少なからぬ部分において、人口学の長い伝統に基づいている。現実の集団における経験的なパターンを記述し、理解することがもっとも重要なのである。Duncanが先陣を切ったこの計量社会学における「人口学的転換」は、大いに成功した。Duncanのパラダイムを十分に理解するためには、現代社会における事実を考えて見るだけでよい。例えば、私たちがアメリカ社会に関して「統計的事実」として知っていることの大部分は、人口学的アプローチに従う計量社会学者によってもたらされたものである。これらには、人種やジェンダーによる社会的不平等や、人種による居住地域の分離、世代間の社会移動、離婚と同棲の趨勢、片親が子どもに与える影響、拡大する所得の不平等、大学教育に対するリターンの増加などが含まれる。
 Duncanが取り入れた控えめなスタイルの計量社会学は、公衆の議論にたいして何かをもたらしただろうか。答えは明らかにイエスである。わかりやすくするために、Kimberlee Shaumanとの共同研究である科学における女性に関することがらを具体例としてみよう。このトピックは最近、Harvardの学長であるLarry Summersのスピーチの後に世間から大きな注目を集めた。Summersのコメントが出てから数週間にわたって大きな反応があったことをみれば、この論点がいかに政治的に繊細なものかは明らかである。Women in Scienceという本の中でShaumanと私は、科学における女性の比率が高まることに賛成するような個人的な政治観は明示せず、その代わりに異なる見方から解釈可能な観察データに重きを置いた。私たちはフェミニズム研究者の気分を害したくないという思いを持っていたにもかかわらず、科学における女性の比率が低いことが単に男性科学者の差別から生じているという命題を否定することには、最初からためらいはなかった。私たちの計量分析による結論は暫定的なものであり、留保を伴うものの、公衆の議論においては高く評価された。私たちは意識的に政策提言を行うことも避けた。なぜならば、私たちの方法論は確固とした結論に至るには、十分ではないことを敏感に察知していたためである。
 Women in Scienceにおいて私たちが行った類の研究は、Duncanの社会人口学的な伝統にまさに含まれる。社会科学における壮大な主張に対しては懐疑的であったので、Duncanは計量社会学にたいするもっとも熾烈な批判者であった。Duncanにとっては、単に定量化を行うことは科学的な推論と同義ではなく、それはまた誤解を招きやすいものである。彼自身の言葉によれば、

 しばしば、私が統計主義(statisticism)と呼ぶに至った症候群が見出される。それは、コンピュータによる計算が研究と同義であるという考えであり、統計学が科学的方法論の完全で十分な基盤となるという無邪気な信仰であり、異なる実体を持つ理論の相対的な利点や、「従属変数」の原因の「重要性」を評価できるような統計的公式が存在するという迷信である。そしてまた、恣意的ででたらめに集められた変数の共変動を分解することが、「因果モデル」であることを正当化するだけではなく、「測定モデル」という到達点として称賛するような妄想のことである。

  統計主義の罠から逃れるためには何ができるだろうか。Duncanは2つの経路を可能性として示した。社会的な測定の改善と、社会的なプロセスを概念化し、そのようなプロセスを明らかにするための研究デザインを改善することである。このどちらの経路についても、私たちは十分な道のりを歩んできてはいない。しかし、Duncanの批判に応えてきたことによって、計量社会学は今日でははるかに強力な分野となっている。

 その失敗、限界、不完全性にもかかわらず、計量的方法論は社会とその変化を理解する上で最良の方法であり続けている。Hegel的な意味において、計量社会学に対する不信と問題をもたらしているものは、まさに計量社会学を必須にさせているものでもある。それは、MayrがDarwinより正しく引き出した、ばらつきの原理である。ばらつきは人間社会の本質である。計量的アプローチなしには、そうしたばらつきを特徴化することは断じて不可能である。推論、内省、個人的経験、観察、直感などの他の方法も、たしかに私たちの理解を進める。しかしそれらは補助的なものであり、現代社会学の中心として計量的方法論に取って代わるべきものではないと、私はあえて提言する。