draw on

 

Drawing on luck egalitarian approaches, this article suggests that an answer to this question must take into account the effects of unequal brute luck on educational choices.
(Voigt 2007: 87)

 

運の平等主義のアプローチを利用して、この問いに対して答えるには教育選択における自然の運による不平等の効果を考慮しなければならないことが本論文では示される。

 

 Ronald Dworkinの理論では、「自然の運」(brute luck)と「選択の運」(option luck)が区別されています。

be + of + 形容詞

 

Yet, multinomial models are still of limited value in the analysis of educational transitions. They specify multiple and possibly ordered categorical outcomes but do not model the conditional risk of transitions.
(Hauser and Andrew 2006: 5)
 
しかし 、多項モデルが教育移行の分析において持つ価値は依然として限られている。それによって複数の、かつ場合によっては順序化されたカテゴリカル従属変数は特定化されるものの、移行の条件付きリスクはモデル化されない。

 

A is one thing, B is another.

 

However, claiming that discourse has these effects is one thing, empirically proving it is another.
(Campbell 2002: 32)

 

しかしながら、言説がこれらの効果を持つと主張することと、それを実証的に示すのは別のことである。

  

 英文を書いていると、どうも同じ表現の繰り返しばかりになってしまうので、幅を拡げるために気になった(使えるようになりたい)言い回しをメモすることにしてみました。

 単語レベルでは、これまでもわからなかった場合にEvernoteに記録してきているのですが、新たに文単位で記録してみます。

 

Arpino et al. (2015) "How Do Changes in Gender Role Attitudes towards Female Employment Influence Fertility? A Macro-Level Analysis"

Arpino, Bruno, Gøsta Esping-Andersen, and Léa Pessin. 2015. "How Do Changes in Gender Role Attitudes towards Female Employment Influence Fertility? A Macro-Level Analysis." European Sociological Review 31(3): 370-82.

 

 以前に研究会で読んだ文献ですが、こちらにも載せておきます。

 

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ガーツ&マホニー(2014=2015)『社会科学のパラダイム論争――2つの文化の物語』

 

社会科学のパラダイム論争: 2つの文化の物語

社会科学のパラダイム論争: 2つの文化の物語

  • 作者: ゲイリーガーツ,ジェイムズマホニー,Gary Goertz,James Mahoney,西川賢,今井真士
  • 出版社/メーカー: 勁草書房
  • 発売日: 2015/08/20
  • メディア: 単行本
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 本書が定量的研究と定性的研究という2つの伝統に注目したのにはさまざまな理由がある。まず,定量的研究・定性的研究という区別は,ほぼすべての社会科学者の言い回しに組み込まれ,さまざまな研究を区別するときの一般的な判断基準として役立っている。ほとんどの社会科学者は定量的研究と定性的研究の対立を口にするが,その両者の違いを同じように理解しているわけではない。筆者たち自身も含め,「定量的」(quantitative)・「定性的」(qualitative)という名称では2つの研究伝統の最も顕著な違いをあまりうまく把握できないと思っているはずの研究者でさえ,その専門用語を使わないわけにはいかないと感じてしまうのである。

[p. 6]

 

  1章を読みました。前にも関連する文献を読んでいますが、新しく担当する授業の導入に使えるかもしれないと思って、ネタ探しのために読み始めています。

 「Desining Social Inquiryとは正反対の立ち位置にある」(p. 2)と明確に断られていますね。たしかに本書のように「2つの文化」を強調する方が、定量的・定性的研究それぞれの、現に行われている実践をすんなり理解しやすいよう思います。というのも、DSIの主張は多くの点で的確ではあるものの、その推奨するアプローチを適用する上での困難さに当惑させられることの方がむしろ多かったからかもしれません。

Granovetter(2017)Chapter 1 "Introduction: Problems of Explanation in Economic Sociology"

 

Society and Economy: Framework and Principles

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  • 作者: Mark Granovetter
  • 出版社/メーカー: Belknap Press: An Imprint of Harvard University Press
  • 発売日: 2017/02/27
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 しかし、過剰社会化された見方と、古典派・新古典派経済学の過小社会化と呼びうる説明との明白な対比は、重要な理論的アイロニーを覆い隠してしまう。両者は原子化された行為者という思考を共有しているのである。過小社会化された説明においては、原子化は自己利益の狭い追求から生じる。過剰社会化された説明においては、内面化されているがゆえに現在進行している社会関係からほとんど影響されることのない行動パターンによって生じている。

[p. 13]

 

 とりあえず1章読みました。導入部分ということもあり、自分にとってめちゃくちゃ新しい知識というのはありませんでしたが、DurkheimやParsonsなど歴史的な議論の中に位置づけて問題を展開してくれているので、自分の頭の中もうまく整理された気分になります。

福沢諭吉『学問のすゝめ』

 

学問のすゝめ (岩波文庫)

学問のすゝめ (岩波文庫)

 

 

 冒頭だけ読むと、単に個人の平等を謳ったものであるとか、あるいは立身出世の方法を論じたものだとか誤解しそうになりますが(恥ずかしながらちゃんと読んだことがなかったので、自分はそんなイメージがありましたが)、通して読むことで近代主義者としての福沢諭吉の思想が伝わってきました。

 第一編が書かれたのが明治5年であり、すでに日本は開国して数年が経過し、物質的・形式的には西洋の文化が様々に入ってきたものの、人々の精神的な面では未だ封建時代と何ら変わっていないと、福沢は舌鋒鋭く論じています。つまり、日本が近代国家になるためのエートスの転換を随所で求めています(「一身独立して一国独立す」)。

 特に、第六編(「国法の貴きを論ず」)は、社会契約的な観点による国家論や、近代国家における「合法的支配」の重要性が展開されており、今日においてもまったく色あせていないように感じます。

 第七編(「国民の職分を論ず」)では、法の支配が優越する近代国家では、暴政に対しては「正理を守って身を棄つる」として、論を以って政府に訴えるべきだとしています。しかしこのことを強調するために、封建時代の忠義の関係によって自らの命を抛つことを、「その形は美に似たれどもその実は世に益することなし」と強い言葉で非難したことは、様々な反発を招いたとのことです。巻末の小泉信三による解説によれば、当時の文部省の担当者はみんな慶應義塾出身であったことから、福沢は検閲を恐れずに大胆な筆致であったということですが、面白いですね。

 他に興味深かったのは、福沢が学問と述べる際の、「実学」の強調でしょうか。福沢は伝統的な漢学が思弁的で文明の進歩をもたらしていないことを批判します。また自身が先駆者として日本に取り入れてきた洋学についても、単にそれを知識として取り入れるだけで活用をしないことについても戒めています。