竹内洋『立志・苦学・出世―受験生の社会史』

立志・苦学・出世-受験生の社会史 (講談社現代新書)

立志・苦学・出世-受験生の社会史 (講談社現代新書)

試験制度が始まった明治以降、旧制高校新制大学における受験生の心性史を描いた本。

戦前については主に受験雑誌の分析を中心にし、受験雑誌が「あるべき受験生」というモデルを提示し、それを読んだ受験生のアスピレーションを加熱する装置だとして説明している。つまり、「私が一高を受験した時は毎日平均12時間は勉強したものです」という体験記を読むことで、「自分もこれだけ勉強しなくては!」と焚きつける力があったということだ。


なるほど、なるほど。確かに自分の経験を振り返っても、センター試験終わった後にどうも受験勉強に疲れてきて、Z会の受験情報誌とか高校の0Bが書いた合格体験記とかを読んで、必死にモチベーションを上げようとしていた時期があったなあと納得できた。もちろん、自分の大学受験と旧制高校時代の受験とでは比べものにならないほど難易度が違ったわけではあるが。

というようなことを考えていたら、昭和40年代を境に人々が受験に与える意味や、受験生の心性が変化してきたと著者は論ずる。

ところが豊かな社会のアノミーのなかでは努力と勤勉という近代日本人のエートスは、価値ではなくなりはじめる。努力奮闘の倫理を支持した社会構造が大きく変化したからである。近ごろの有名大学生は、受験でほとんど勉強しなかったことをひけらかそうとするのはこの故である。かつての受験生が過度に努力物語を強調したとすれば、今の学歴エリートは努力しなかったことを過度に強調しようとする。学歴は単に「選択的保証」にすぎないと、自らの才能や出自のよさ(おぼっちゃま・おじょうさま)を気取りたいというのが当世風である。
こうして受験から努力や勤勉の強迫観念が取り払われることによって試験の秘儀性が剥離されはじめたことが受験のポスト・モダン現象である。
(p.176)

 したがって、ダサい受験生というのはいま述べたような希少性時代の刺激言説にリアリティを感じてしまい、硬い受験競争を前提にして受験勉強に励んでいるものである。
(p.194)


がーん。ダサい受験生ですか、そうですか。
でも、この本が書かれたとき(1991年)からさらに時間が経っているわけだけれど、「厳しい受験競争を乗り越えた後には輝かしい未来がある」みたいな「希少性時代の刺激言説」に刺激される受験生は、地方だとまだ結構いるような気がするなあ。言説の意味内容は、立身出世ではなく大学生活の楽しさだとか変化はしているだろうけど、そうした言説を内面化することで、アスピレーションを高めてようやく難関大学に合格できるというか。都市部の私立中高一貫校の人たちが持つ余裕とはやはり違う。

それはそうと、「受験のポスト・モダン現象」が生じた理由の説明が欲しかった。「豊かな時代になると達成(立身出世)によって得られる報酬の満足の魅力が大きく後退する」という「豊かさのアノミー」と全国的な模擬試験が導入されることによる「予期的選抜(事前に合否の結果が予想できることによる諦め)」を理由に挙げてはいるけれど、本当にそれだけだろうか。少し紋切り型の説明であるように思える。韓国では、経済的な豊かさは達成されているけれど、ものすごく激烈な受験競争が起こっているわけだし。学歴の持つ実体的な意味ではなく、象徴的な意味に注目する必要があるんじゃないだろうか。


あと興味深かったのは、予備校がなぜ面白いと思われるのかの説明。

 受験生にとって予備校がおもしろいのは、予備校には目標があるからとか教師が熱心だからというようなことではない。そこでは徹底的に試験が相対化され、暗号の位置におかれるからである。予備校は入試を秘儀的な儀式の位置から暗号解読ゲームに変換してしまう場だからである。試験の秘儀性が剥奪されることは、学校=教育システムの存立構造の秘密のカラクリを知ってしまうことである。それはアカデミズムの秘密―真理の探究というよりも、それ自体特有のルールにもとづいた知的ゲーム―をも知ってしまうことになる。この種の知ってしまう爽快さ(深刻真面目受験劇の相対化)がいま予備校が面白いの背景にあるはずである。
(p.179)

中学時代に高校受験までの半年間、塾に通っていたことがある。何人か仲の良い友達が行っているからという気楽な理由ではじめたのだが、妙に楽しかった覚えがある。先生が変わった人が多くて面白かったということで納得していたのだが、ここに述べられたように塾や予備校という場は、受験を暗号解読ゲームとして相対化してしまうということが確かにあると思う。多種多様な英語の問題を、いくつかの定型的な構文でうまく分類しまうところに、「学校では教えてくれないこんな(マニュアル化された)方法があったのか!」と新鮮な気持ちを味わったものである。あるいは、暗号解読以外のゲームの面もあるだろう。「試験で順位を貼り出すと、できなかった生徒が差別された気持ちを感じる」とする学校に対し、塾では全員の得点・順位が貼り出され、それに応じた席順として可視化される。テストがあるたびに自分の塾内での相対的な位置が確認されるというゲーム性に、何とも言えない心地よさを感じてしまっていたような気がする。

そう考えるとやっぱり時代は変わっているだろうか。昔の受験生は受験をゲームとしてとらえる余裕なんてなかっただろうな。