中村高康『大衆化とメリトクラシー―教育選抜をめぐる試験と推薦のパラドックス』

大衆化とメリトクラシー―教育選抜をめぐる試験と推薦のパラドクス

大衆化とメリトクラシー―教育選抜をめぐる試験と推薦のパラドクス

すなわち、[後期近代においては]自分がどのように配置されるのか・どのような位置に動くのかということが伝統や慣習という形で説明されなくなり、自己の能力と配置の関係が問題とされるようになる。すなわち、メリトクラシーの妥当性が多くの人々によって再帰的にモニターされる社会になる。その際に重要なのは、さきほども指摘したように、われわれは誰が本当に能力があるのか、どの基準がメリトクラシーの基準として真に妥当なのかということは、あらかじめ客観的に知ることができない、ということである。[42-3]


メリトクラシー再帰性が高まった後期近代社会(=再帰メリトクラシーの社会)は、同時に自己の能力がいかほどのものであるのかということが常に問われ続ける社会でもある。[44]


このように見てみると、戦後教育を捉える際にキーとなる現象のうち偏差値や通塾といった個人の私的選択と密接に関わる現象は、多くの場合は後期近代における能力不安の大衆化とそれへの対処方策としての能力アイデンティティ再帰的な問い直しに関わるものとして理解することが可能なのである。[45]


特に、偏差値や通塾といった受験病理的に見なされてきた現象と、推薦入学や調査書選抜のようにそうした受験病理を緩和するものとして導入されたとみなされてきたものが、実は戦後史の中では同時並行で拡大発展してきたという歴史的事実は、説明しにくいためか従来はほとんど無視されてきた事実だが、これを整合的に説明できることにメリトクラシー再帰性という視点の有効性が示されているように思う。[48]


推薦や調査書と同様に偏差値や合否判定もまた、教育の大衆化が受験競争への批判を高め、受験生の不安を緩和すべく導入された経緯を持つ、マス選抜の装置であったということである。[119]


けっして進学をめぐる能力不安は偏在しているわけではない。その意味では竹内が指摘した層別競争移動(竹内 1995)という指摘、すなわちそれぞれの層ごとに微細な差異をめぐる競争が日本の選抜システムには組み込まれているという認識とも符合する。[145]


質的データの分析によって浮かびあがったのは、商業高校において成績優秀な生徒に対して特に進学誘導的な進路指導が行な
われていることではじめて、選抜が効果的に生徒たちを四大へと水路づける可能性である。[191]


しかし、この[Brownの指摘する"opportunity trap"という]「罠」という表現にはエリート選抜とマス選抜を区分する発想が十分には含まれていない。なぜなら、高等教育拡大が「罠」となりやすいのは、高等教育進学者のアスピレーションが一律に高い場合であるが、日本のように学校の序列が明確な社会では、同じ大卒であってもアスピレーションの程度には入学時から差があるのが普通であるからだ。[207]


このように、当該社会における近代的エリート選抜は全く修正されないわけではないものの基本的には温存され、一方でマスへの対応によってシステム全体としては変化し続けるのが後期近代の教育と選抜だと考えられる。[212]