- 作者: ドストエーフスキイ,米川正夫
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1957/06/20
- メディア: 文庫
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ドミートリイがグルーシェンカを追って田舎の村へ行ったところ、父フョードルの殺害事件が起きて、嫌疑をかけられる〜コーリャ・クラソートキンとアリョーシャが、病床のイリューシャを訪問する場面まで。
ドミートリイがポーランドの紳士たちと賭けトランプをやる場面は、登場人物が多すぎて相変わらず人物関係をよくつかめなかった。人物をメモしながら読んだ方がよいのかもしれない。
一方後半の、イリューシャを訪問する場面は面白かった。
ドストエーフスキイの小説では、子どもは純粋無垢でな存在として描かれることが多い。特に貧困や病気、虐待の問題と絡められ、並々ならぬ同情を以て描かれる。
全く罪のない子どもがどうして苦しまなければならないのか、というのは激しくドストエーフスキイを悩ました問題であって、それはこの場面にもよく表れていると思った。
「子どもは穢れなき存在」という子ども観は、どちらかというと欧米人よりも日本人にもしっくり来る考えだと言われる。『人間形成の日米比較』という本で分析されていることだが、キリスト教における原罪が、そうした子ども観を形成の違いの一つにある。
とすると、キリスト教社会の文脈で、ドストエーフスキイのような子どもの描写がなされることは原罪の概念に対する異議申し立てであると考えることができる。
19世紀の近代化の中で、人々の孤立や道徳の崩壊にロシア社会は直面した。ドストエーフスキイはそうした中で、キリスト教の再生に希望を見出していたわけだが、一方でその根本思想である原罪については、そのままでは成り立たないと考えていたということか。何とも深淵である。