バジル・バーンスティン『の社会学理論――象徴統制,の言説,アイデンティティ』

“教育”の社会学理論―象徴統制、“教育”の言説、アイデンティティ (叢書・ウニベルシタス)

“教育”の社会学理論―象徴統制、“教育”の言説、アイデンティティ (叢書・ウニベルシタス)

イギリスの教育社会学者、バーンスティンのコード理論と、それに対してなされた批判への反批判が書かれている。

バーンスティンによれば、<教育>(pedagogy)とは、「学校の中で行われる関係[education]よりもいくぶん広い概念であり」、「医者と患者、精神病医といわゆる精神病者、建築家と設計者といった諸関係をふくむもの」であり、すなわち「文化の再生産―生産が生じる規定的な社会的文脈」を指すもの。

またコード(code)とは、一般には法体系、規約、記号といった意味であるが、バーンスティン理論では、以下のものを選別し統合する、暗黙に獲得される規制原理のこと。

(a)適切な意味
(b)意味の実現形態
(c)呼びだしの(evoking)文脈

すなわち、コードとはコミュニケーションが行われ、理解される際の原理である。

そして、<教育>の実践においては<教育>コードと呼ばれるものが働き、「象徴統制(symbolic control)」が行われ、アイデンティティの形成において重要な働きがなされる。

また、コードはそれがどのような意味を選択するかにおいて二つに分けられる。
一つは、「精密化された(elaborated)」コードであり、もう一つは「制限された(restricted)」コードである。精密化されたコードは、より抽象的で文脈から独立した意味を指向し、一方、制限されたコードは、よりローカルな文脈に埋め込まれた意味を指向する。

教育社会学の教科書では
・精密コード→中間階級
・制限コード→労働者階級
の言語に対応するという風に紹介される。


本書では、理論の紹介が専らで、階級間のコミュニケーションの差異といった分析はされていないので、かなり難解に感じた。

一番良く理解できたのは、コード理論自体よりもブルデューの文化的再生産論を批判している部分かな。

主要な文化的再生産理論、本質的にはパリ版の文化的再生産論においては、理論が持つ前提と焦点によってかえって不十分なものとなっている。そのため文化的再生産論は<教育>機関、<教育>言説、<教育>実践を記述するための強力な原理を提供できないのである。これは思うに、文化的再生産論が教育外部の権力関係の運び手として教育を見てしまうからだと考えられる。この見方からすれば、<教育>言説はそれ以外の何者かを運ぶものとなってしまうのである。<教育>言説は、学校の外部にある権力関係の運び手であり、階級や家父長制や人種・民族に関する支配的なパターンの運び手なのである。もっとも興味深い問題は、権力の中継の運搬を可能にする現実の構造がそれ自身としては分析されないという点である。パラドキシカルなことに、文化的再生産論では言説自体に内在する構造の分析が見失われているのであり、外的な権力関係が運搬される手段を提供する言説構造やこの言説の論理(第2章)が見失われているのである。
(p.38)

確かに文化的再生産論では、言説の構造が権力関係をもたらし、再生産が行われることを指摘するけれども、なぜ(他ではなく)その構造なのかということはブラックボックスにしているのかもな、と思った。