歴史と理論の関係という、古くから議論の続く問題に関して、近年の事例研究における研究の発展から、両者の統合的な試みが行われている著作です。
序章では、歴史学者による社会科学者批判というテーマから始まっています。歴史学者は新たな資料を発掘して事実を明らかにするのに対して、社会科学者はこれらの資料を二次的に利用することで、理論の構築を行ってきました。こうした社会科学者の仕事に対して、歴史学者からは(あるいはGoldthorpeなどの社会科学者からも)、資料の恣意的な選択によって理論を構築することが可能であるという批判が行われてきました。こうした自らの仮説に対する証拠の取捨選択という問題については、著者は「プロクルーステースの寝台」になぞらえ、本書の中心的な問題の一つとして扱っています。
本書の目的として、「個性記述的(idiosyncratic)な歴史研究」、「法則定立的(nomothetic)な社会科学」というしばしば用いられる二分法(これはマックス・ヴェーバーの時代からすでにある区別ですね)に疑念をはさみ、「イシューを限定した中範囲の理論」が目指されます。
理論を構築するための推論の方法として、演繹法・帰納法両者の問題点を述べます。演繹法については、前提が真であることを演繹的に導くことが不可能であるというものであり、帰納法については観察を重ねても単称言明から普遍言明に至ることはできないという問題です。
著者はそれに代わる推論の方法として、「アブダクション」を挙げます。これをわかりやすく解説するために、仮説演繹法との対比が行われています。仮説演繹法が、(1)仮説の検証を目的とし、(2)(独立)変数からアプローチを行い、(3)事例の数は多数であり、(4)解明すべきは十分条件であるのに対して、アブダクションは(1)仮説の発見を目的とし、(2)事例からアプローチを行い、(3)事例の数は少数であり、(4)解明すべきは必要条件であるということです。このあたりは、RaginやGerringなどの近年の事例研究の方法論が引用されていて興味深いです。また、KJ法による推論もアブダクションと共通しているところがあるそうです。
また、アブダクションについて、歴史家のギャディスによる面白いエピソードが脚注で紹介されています。
ギャディスによれば,このようなマクニールの説明を聞いた経済学者・社会学者・政治学者は,「そんなものは方法ではない」と述べ,失望と嘲笑の表情さえ浮かべたという。いわく,「それは節約的ではないし,独立変数と従属変数の区別をしておらず,また帰納と演繹を混同しているところなど救いようがない」と。しかし他方で,ほかの参加者がこう述べた。「いや,その通り」。「それこそまさしく,われわれが物理学で使っている方法だ!」
(p.95)
事例の選択に関しては、単一事例の分析による理論構築の可能性にたいして否定的な立場がとられています。また、事例を選択する際には、キングらが『社会科学のリサーチデザイン』で警告したように、従属変数に基づく選択はバイアスがともなうという危険があります。著者が主張するのは、「事例全枚挙」という方法です。これは、特定の時間軸に研究対象を限定した上で、そこに含まれる事例はすべて扱うというものです。こうすれば定義した「母集団」すべての事例を扱うことになるので、選択バイアスの問題は生まれないということのようです。
事例の全枚挙によって事例を特定した後は、事例から因果関係を特定するという作業になります。この際に用いられるのが「過程追跡」(process-tracing)です。これは近年の事例研究では重要とみなされている方法なのですが、CollierやMahoneyなどの論文を読んでもいまいちよくわかっていませんでした。ベイズの定理やプロスペクト理論と関連していることがとりあえずわかりました。
さらに著者は「過程構築」(process-creating)という方法を提唱し、つねに仮説を可変的なものとして担保してゆくことで、「プロクルーステースの寝台」問題を回避することを提案しています。
この一冊で、キングらの『社会科学のリサーチデザイン』以降の、事例研究における重要な発展をフォローできた部分が多く、かなり勉強になりました。個人的な関心から言えば、本書で提唱されているアブダクションにもとづく推論が、大規模な計量分析ではスタンダードになっている、反実仮想にもとづく潜在結果モデルによる推論に対して、どのような示唆を持つのかということが気になりました。