三浦大輔『逆境での闘い方――折れない心をつくるために』

 

逆境での闘い方 ~折れない心をつくるために~

逆境での闘い方 ~折れない心をつくるために~

 

 

 今季で現役引退を発表している横浜の三浦大輔投手が、自らの経験や練習の心構え、ファンへの思いなどを綴った作品です。

 どの分野でも一流の人が書いたものは面白いですね。ただし、実績は一流でも、もともとは無名校出身・ドラフト下位指名で、きわだった身体能力もなく、いかに努力で補ってきたかということが繰り返し強調されています。

 努力を重ねるということに関して、やはり人間は環境に影響されやすいところがあると思います。周囲のモチベーションは高い方が自分にもよいし、実際そういった目的のために環境を変える人もいます。この本が書かれた2012年時点では、横浜は5年連続リーグ最下位にあり、そうした中でも誰よりも練習に励んできたという、三浦選手の姿勢は驚異的なものに感じられます。

 ただし、自身も心が揺れたことがあるのは認めており、2008年にFA宣言をして、阪神に移籍する直前まで行きつつも、結果として残留を決断した際のことにも触れられています。

 

「そうだ、俺は弱いチームを強くして、みんなで優勝を味わいたいんだ」

[p.51]

  

 いちいち表現がかっこいいですね。

 また、特に印象的な箇所を挙げるとすれば、次のあたりでしょうか。

 

 自分は練習が大嫌いだ。はっきりいって、やっていても何の面白味も感じない。それは、ベイスターズ選手会で行っている小学校訪問授業の際には子どもたちにもはっきりと言っている。

「自分は練習が大嫌いです。やらなくてもいいと言われれば、正直やりたくありません。だって、しんどいですから」と。

 これだけで終わってしまえば、ただの愚痴になる。だから、こうも付け加える。

「ただし、練習をしなくてプロ野球選手になった人はいないし、一流選手になれた人もいない。自分が『うまくなりたい』と強く思っているんだったら、しんどくても練習をするしかない。試合で負けたら悔しい。じゃあ、『悔しいから次は絶対に勝ちたい!』と誰よりも思っていたとしても、気持ちだけで勝てるなら世の中の多くの人が勝者になれる。現実はそれだけでは勝てない。勝つためにはどうするか? うまくなるためにはどうするか? 練習しなければならないんだ」 

[pp.156-7]

 

 自分の気持ちを飾らずに、正直に語っている感じがするのが好印象ですね。この箇所も含め、本書を通して自分が受け取った教訓としては、いかにして、嫌なことでもルーティンとして確立するか、といったところでしょうか。

Busemeyer et al. (2011) "Individual Policy Preferences for Vocational versus Academic Education: Microlevel Evidence for the Case of Switzerland"

Busemeyer, Mauris R., Maria A. Cattaneo, and Stefan C. Wolter. 2011. "Individual Policy Preferences for Vocational versus Academic Education: Microlevel Evidence for the Case of Switzerland." Journal of European Social Policy 21: 253-73.

 

 分析に入るまでの部分をまとめてみます。異なる教育セクターへの配分に関する意見と、公的な教育支出の水準に関する意見の区別は、ちょっと自分でも気になっているところがあり、分析してみたいとも思っています。

 

  • 多くの研究において、福祉国家の様々な政策へ個人の選好が与える影響が分析されてきたものの、教育への関心は少ない。くわえて、教育社会学における研究は、個人の選択、すなわち、ある教育段階からの次の段階への移行に焦点を当てており、教育政策への選好にはそれほど注意が向けられていない。
  • 知見をまとめるならば、アカデミックな教育と職業教育のように、公的な教育支出の配分の面における選好に対して、学歴と所得は影響している。しかしながら、公的な財源の水準ということになると、学歴と所得はほとんど説明力がない。むしろ、党派のイデオロギーが主要な規定要因となっており、左派的な人々ほど、(公的・私的な財源両方においての)人的資本への投資を支持する。くわえて、制度的な文脈が関わっている。職業教育の伝統を有しているスイスの州ほど、職業教育への公的支出が支持されやすい。
  • 教育政策への選好についての研究は、実証的にのみならず、理論的にも重要である。民主主義社会においては、有権者の政策選好が意味を持つ。もちろん、有権者の政策への選好は集計され、中間団体、政党、政治制度によって選別されるものの、個人の態度と政策のアウトプットには関連があるということが、研究によって明らかになっている。

 

文献レビュー

  • 1980年代の後半より、社会政策への選好に関する、個人レベルの規定要因が多く研究されてきた。この研究の一部は政治社会学におけるものであり、また一方で政治経済学によって再分配への選好が分析されてきた。
  • おそらくもっとも重要なこととして、個人の利害とイデオロギーの両方が、社会政策への選好の差異を説明する要因となっている。福祉国家あるいは再分配への全般的な支持は、ミクロレベルでは所得と負に関連している。低所得者は高所得者にくらべて、寛大な福祉国家政策よる利益を期待できるためである。
  • しかしながら、個人の利害のみでは、様々な政策への選好は説明できない。古典的な研究デザインにおいては、一方では「移転階級」('transfer classes')への所属によって、すなわち福祉国家政策へのアクセスの違いによって、また一方では政治経済階級(労働者とブルジョワジー)によって、説明が試みられる。
  • 党派的なイデオロギーにくわえて、一般的な価値志向も影響する。Van Oorscholtは、「妥当性」('deservingness')の感覚が重要であることを強調している。高齢者、疾病者、障害者のように、「受けるに値する」と感じられる集団を対象にした政策は、移民のように、「受けるに値しない」と感じられる集団を対象にした政策よりも、強く支持される。
  • 制度的な文脈もまた影響するとされるものの、その結果は決定的なものではなく、曖昧である。Rothsteinは、「公正な」('just')制度、すなわち、そのように感じられるような普遍的な福祉国家制度は、福祉国家全般への支持を強めると主張した。この議論に沿って、多くの研究は、Esping-Andersenの「福祉資本主義の世界」と、社会政策への支持の関連を分析した。しかしながら、結果は一貫しておらず、必ずしも福祉資本主義の世界にそって、支持の違いがあるわけではない。アメリカのような最低限度の福祉国家においても、福祉国家政策は全般的に支持されているのである。一般的な問題として、福祉国家制度と個人の選好の因果の方向性が、明確ではないということがある。BrooksとManzaは、個人の政策選好は、社会政策の変化を引き起こすと主張している。一方で、Kenworthyは、福祉国家の寛大さが、支持の上昇に先行していることを示し、疑問を呈している。
  • 比較福祉国家研究の貢献にくわえて、近年の教育社会学における研究は、個人レベルの政策選好を明らかにする上で役に立つかもしれない。BreenとGoldthorpeによる1990年代の一連の研究、およびそれに先立つBoudonの研究に始まり、数十年にわたる教育拡大にもかかわらず、教育達成の階級格差が持続しているのか、という問いが探求されてきた。BreenとGoldthorpeは、個人の意思決定は合理的選択に基づいているものの、教育投資における相対的な費用と利益の感覚が、教育達成の階級格差の構成要素となっていることを示した。HilmertとJacobは、このモデルを拡張し、費用と利益の感覚は、教育を継続することの意思決定に影響するのみならず、アカデミックな教育と職業教育の選択にも影響していることを示した。
  • しかしながら、これまでの研究は、教育政策への選好を見ていない。比較福祉国家研究は、様々な社会政策を従属変数に用いるものの、そこに教育は含まれないことが多い。他の社会政策と同様に、教育への投資は再分配の含みを持つために、全般的な研究の欠如は驚きである。Wilenskyによる、「教育は特別である」という決定的な主張を聞き入れて、比較福祉国家研究は、教育は福祉国家において切り離せない要素であることを、無視する傾向にあった。
  • 教育社会学における研究は、個人の教育選択を説明しようとするものの、政策選好は含められていない。政策選好は、教育の意思決定にも反映されると考えるのは、妥当だろう。

 

理論枠組み

  • 出発点として、個人の教育政策への選好は、二次元の行列に位置づけることができる。第一の次元は、異なる教育セクターへの公的資金の配分である。特に、アカデミックな教育と職業教育への資源の配分が関心となる。第二の次元は、教育にかかる費用の配分と、人的資本形成の財源についての国家の役割である。すなわち、教育の費用は国家か、個々の生徒や訓練を行う企業のような、私的なアクターが行うべきかというものである。

 

所得と学歴
  • 所得は再分配選好における重要な規定要因と見なされている。オリジナルのMeltzer-Ricahrdモデルにおいては、富裕な人々は、自らが受ける利益よりも税金による支払いが多くなるため、再分配には反対するであろう、という単純な期待が行われている。
  • しかしながら、より純粋な形態の再分配にくらべて、教育は複雑である。第一の次元である、公的資金の教育セクター間の配分については、個人は自分の子どもが就学すると期待する教育セクターへの、資源の集中を支持すると考えるのが妥当である。これは、福祉国家研究における、「移転階級」の論理にも適合する。同様にして、個人は自らが経験した種類の教育へと、資源の集中を支持するかもしれない。
  • しかしながら、これとは異なるもっともらしい期待も存在する。「上昇移動の見込み命題」('prospect of upward mobility thesis')は、低所得者が近い将来において、裕福になることが期待できるならば、再分配に反対するだろうと述べる。明らかに、教育は上昇移動を促進する重要な手段である。それゆえ、職業教育を受けた豊かではない人々が、高等教育に対する公的資源の集中を支持することはありうる。 つまり、教育拡大が普遍的に働くことで、自らの子どもが高等教育に就学することが期待できるような場合である。
  • くわえて、富裕な人々が、職業教育への公的資源の集中を支持するかもしれない。これらの人々は、自らの子どもが、いずれにせよ大学に進学することを期待する。この場合に、低所得家庭出身の子どもたちに対して高等教育と高技能の労働市場へのアクセスを制限する上で、職業教育を促進することが役に立ちうるのである。
  • 第二の次元、すなわち、教育にかかる費用の配分に関しても、予測される結果は曖昧である。一方で、低所得の人々は、大学教育にかかる費用の大部分を政府が担ってくれることを支持するかもしれない。というのも、自らの子どもが近い将来に大学に進学することを期待し、また低所得の人々ほど授業料などの資金面での障害に直面するためである。しかし他方では、低所得の人々は、高等教育への公的支出の拡大は、自らの階級から上流階級への再分配であると感じるために、反対するかもしれない。くわえて、低所得あるいは職業教育の学歴を有する人々は、企業が職業教育を行う上での財政的な責任を担うべきだと考えているかもしれない。
  • まとめると、所得と学歴が教育政策の選好へと与える影響は、理論的に見れば曖昧である。所得と学歴は正に相関しているため、多変量解析の枠組みによって仮説は検証されなければならない。

 

党派帰属
  • 社会政策において、政党は明確なシグナルを伝える。すなわち、左派政党は福祉国家の拡大を支持し、右派政党はそれに反対する。しかし、教育投資においては、再分配の意味が明確ではないために、この関係はより曖昧である。いくつかの研究では、左派政党は福祉国家の拡大と同程度に、教育拡大を支持するとされている。これに対して、Ansellは、Boixの研究に一部従いつつ、社会民主主義政党は高等教育への投資の拡大に対して、消極的であるという主張をしている。というのも、こうした政策において利益を受けるのが高所得の家族、すなわち、左派政党の中核的な支持者ではない人々であるためである。

 

制度
  • 制度は適切な行動の論理について、様々に定義し、また人々を特定の政治的・文化的文脈へと社会化する。たとえば教育制度は、「まともな」('decent')教育についての感覚とイメージを形成し、教育の意思決定と選好に影響する。強固な連邦主義によって、スイスの教育システムは州によって大きく異なる。ドイツ語圏においては、徒弟制の形態による企業内の職業教育が、(後期)中等教育に優越している。フランス・イタリア語圏においては、学校内の職業教育とアカデミックな教育が強い。若年者の多くが徒弟制教育を経験する州においては、職業教育への公的資源の集中がより支持されることが期待される。同様にして、学校内の職業教育またはアカデミックな教育を受ける割合が高い州においては、教育への公的支出の拡大がより支持されやすいのに対して、徒弟制の訓練を受ける割合が高い州においては、企業の関与がより要求されやすいことが期待される。

 

Welsh (1999) "Gender and Sexual Harassment"

Welsh, Sandy. 1999. "Gender and Sexual Harassment." Annual Review of Sociology 25: 169-90.

 

 最近は、授業や大学組織に関する勉強が結構楽しいですね。今月末には、全学のハラスメント研修というものが初めて行われるらしく、申し込んでみました。「体験型ワーク」 なるものがプログラムに入っているのですが、何をするのでしょうかね。

 

 

  • 20年前には、セクシュアル・ハラスメントの研究は、それが研究価値のある社会問題であるかということや、その拡がりについての記述的な分析に焦点を当てていた。近年では、この現象の原因と結果についてのより洗練された実証的・理論的分析が行われるようになっている。

 

セクシュアル・ハラスメントとは何か

  • 法的な観点から言えば、セクシュアル・ハラスメントとは2種類の行動から成り立つ、性差別の形態である。それらは、代償型(quid pro quo)ハラスメントと、環境型(hostile environment)ハラスメントである。代償型ハラスメントには、雇用やその意思決定に関わることを条件に行われる性的な脅し・賄賂が含まれる。環境型ハラスメントとは、個人が仕事を行うことへの阻害となったり、威嚇的・敵対的な就業環境を作ったりするような、性的な冗談、コメント、接触を指す。セクシュアル・ハラスメントはしばしば、女性がある職場において歓迎されていないことや、職場集団においてメンバーとして尊敬されていないことを知らしめるということが根幹にある。

 

セクシュアル・ハラスメントの拡がりと測定

セクシュアル・ハラスメントはどれだけ拡がっているのか
  • セクシュアル・ハラスメントの経験を回答する女性の比率には、相当なばらつきが存在する。サンプルによって、16%から90%の働く女性が、セクシュアル・ハラスメントを生涯において経験している。こうしたばらつきは、セクシュアル・ハラスメントの実証研究が直面する主要な問題の一つを浮き彫りにしている。というのも、これらの不一致は部分的には、調査の測定に関わる問題に起因しているためである。
 セクシュアル・ハラスメントの測定
  • セクシュアル・ハラスメントの研究において、問題であるとされている測定に関わる事項の中には、次のものがある。それらは、サンプルの違い、有効回答率、セクシュアル・ハラスメントの質問項目数、質問の文脈と想定する期間である。たとえば、ランダム・サンプリングに基づいた回答率の高い調査では、セクシュアル・ハラスメントの経験比率が低くなる傾向が見られる。くわえて、かつての調査においては、セクシュアル・ハラスメントをどのように定義するかについて、ほとんど一致した見解が存在しなかった。調査項目は非具体的であることが多く、たとえば、「性的関係についての圧力」や、「性的な発言やからかい」の経験について尋ねるというものだった。あまりに簡素な質問は、回答者によって異なる解釈がなされる可能性があるため、問題である。こうした測定の問題を受けて、2つの総合的かつ整合性の高い測定のスキームが現れた。
  • the Sexual Experiences Questionnaire(SEQ)は、セクシュアル・ハラスメントを3次元から構築されるものと考える。それらは、ジェンダー・ハラスメント、意に反した性的配慮、性的強制である。それぞれの次元は、複数の指標を用いる。ジェンダー・ハラスメントは、女性一般に関する性差別的・軽蔑的なコメントや冗談を指す。意に反した性的配慮は、頼んでいない性的な発言や質問、性的な接触から成り立つ。性的強制は、あらゆる形態の性的教唆である。全体として、SEQの作成者はセクシュアル・ハラスメントを、「職場において、対象者にとって攻撃的である、自らの資源を超えている、自らの福利が脅かされていると感じられるような、意に反した性的行動」から成り立つ「心理的な構築物」と定義する。
  • 回答の信頼性を増すために、SEQの調査項目は、具体的であり、「行動に基づいた」ものが含まれる。回答は3件または5件のLikert尺度で分類され、どれほどの頻度でハラスメントが起こったかを測る。ある研究においては、それぞれの信頼性について、ジェンダーはハラスメントは.82、意に反した性的配慮は.85、性的強制は.42であることが示されている。性的強制における低い値は、この種類のハラスメントの回答率が低いことを反映している。ほとんどの項目は、「私はセクシュアル・ハラスメントにあったことがある」という基準項目と高い相関を示している。こうした分析を通じてSEQの作成者たちは、信頼性と妥当性の基準を満たしていると考えている。
  • the Inventory of Sexual Harassment(ISH)は、以前に刊行されたセクシュアル・ハラスメントの研究や判例の内容分析を通じて作られた。ISHは3つのカテゴリーからなる。すなわち、言葉によるコメント、言葉による要求、言葉によらない表示である。ISHは、代償型と環境型のハラスメントの法的区別を一緒にしてしまっているという批判がなされるものの、ハラスメントがより深刻であるかどうかを捉えることを可能にしている。
  • 測定に関するさらなる研究が必要である。第一に、具体的な種類のハラスメントに関して、頻度、期間、直接性、攻撃性を測るような個別の指標、または下位尺度がさらに開拓されるべきである。第二に、ほとんどのハラスメント行動は独立して生じるわけではないため、累積的・多次元的な測定が発展させられるべきである。第三に、SEQとISHの作成者以外によって、これらの測定に関する信頼性と妥当性のテストが行われるべきである。そして次の節で述べるように、より広いハラスメント行動へ注意が向けられるべきである。過去20年にわたり、セクシュアル・ハラスメントに関する社会学の研究は、調査が構築される方法による制限を受けてきた。これにより、セクシュアル・ハラスメントは、男性が女性に対して行う、曖昧性のない個別の現象として、見なされることがほとんどであった。しかし、セクシュアル・ハラスメントを構成するものは、個人の知覚や組織の文脈に基づく、主観的なものでもありうる。

 

それはセクシュアル・ハラスメントなのか? 性的行動をラベリングする

  • 調査の対象者は、しばしば意に反した性的行動のターゲットになっていると回答するものの、多くはそれをセクシュアル・ハラスメントと定義しない。
  • 回答者がなぜ、ある種の意に反した性的行動をハラスメントであるとラベリングしたがらなかったり、そうすることに慎重であったりすることには、いくつかの説明が行われている。第一に、社会心理学者は、より伝統的な性役割態度を持っている男女は、ある行動をよりセクシュアル・ハラスメントであるとラベリングしにくいことを見出している。第二に、性的志向、人種、ハラスメントを行う人間の組織における位置などの個人属性の違いが、ハラスメントの経験のラベリングに影響する。第三に、性的行動の深刻さ、継続性、頻度が、ハラスメントであるというラベリングに影響する。
  • 近年の定性的研究では、組織文化によって、個人がある性的行動をセクシュアル・ハラスメントであるとラベリングすることへの意志や能力に影響することが強調されている。男性的な職場文化においては、女性は有能なチームプレイヤーであるとみなされるために、自らの経験をハラスメントであると定義しないことがありうる。
  • 回答者による自己ラベリングからは、ハラスメントが法システムに入りづらいことが示唆される。しかし、これらの経験が影響をもたらさないということではない。意に反した性的行動の対象となった人々は、その経験をセクシュアル・ハラスメントであるとラベリングするかどうかにかかわらず、よりネガティヴな心理的なアウトカムや、仕事上のアウトカムに至りやすい。調査の測定に関して言えば、「あなたはこれをセクシュアル・ハラスメントであると考えましたか」という質問は、自己ラベリングの影響を見ることに用いることができる。
  • しかし、労働者がある性的行動を仕事の一部であると同意しているような、制度化された形態のハラスメントは、調査項目では捉えられづらい。これを乗り越えるために、民族誌的な方法によって、曖昧な形態のセクシュアル・ハラスメントを明らかにし、客観的・主観的な測定の溝を埋めようという提案をしている研究者もいる。

 

セクシュアル・ハラスメントの理論と説明

  • セクシュアル・ハラスメントの研究に弱みがあるとすれば、なぜセクシュアル・ハラスメントが起きるかについての、体系的な理論的説明を欠いていることである。ほとんどの研究は、主に共変量を記述するモデルであり、なぜセクシュアル・ハラスメントが起こるかの説明をもたらしていない。こうした中でも有望なのは、「社会文化」モデルと、「組織」モデルに基づく説明である。

 

社会レベルの説明と社会文化モデル
  • 社会文化モデルは、セクシュアル・ハラスメントが、文化的に正当とみなされた権力と地位の男女間の差異から生み出されるものだと見なす。社会文化的な説明は、セクシュアル・ハラスメントの起源を家父長制社会にあると強調する「フェミニスト」、または「支配」モデルとも整合する。セクシュアル・ハラスメントは、ジェンダーの社会化プロセスに伴うものであり、男性が女性に対して職場と社会において権力と支配を行使するメカニズムであると見なされる。
  • 社会文化モデルはまた、年齢や婚姻状態などの個人レベルの要因が関連して、女性の低い地位や社会文化的権力の欠如を媒介していると主張する。たとえば、独身女性や若い女性は、より利用可能性が高いと見なされ、そのためよりセクシュアル・ハラスメントを経験しやすいかもしれない。年齢は「若さの影響そのもの」だけを捉えているのではなく、勤続年数の短さや仕事上の地位の低さの代理指標にもなっているとも主張される。
 
組織レベルの説明
  • 様々な説明において、組織の役割が強調されている。これらに通底するのは、組織における権力の差異がセクシュアル・ハラスメントを促進し、不平等を持続的なものにするということである。

 

公式・非公式の権力

  • 男性優位、女性優位の職場集団のように、職場環境において数的に歪んだ性比率は、セクシュアル・ハラスメントの説明において有望な役割を担っている。

 

性役割の波及

  • 性役割の波及理論は、セクシュアル・ハラスメントの主要理論の1つである。Gutekによれば、女性のジェンダー役割が、仕事上の役割に優先する際に、性役割の「波及」が生じる。これは、ジェンダー比率が男性、女性のどちらかに大きく歪んでいる場合にもっとも生じやすくなる。というのも、こうした状況は「女性であること」がより際立ち、見えやすくなるためである。全体として、性役割の波及理論は、数的に歪んだ職場環境における、ジェンダーに基づいた規範的な期待を強調する。
  • このアプローチに対する実証結果は一致していない。男性的な仕事における女性は、女性的な仕事あるいは男女統合された仕事における女性よりも、セクシュアル・ハラスメントを経験しやすい。しかし、これらの女性がよりその経験をハラスメントであるとラベリングしやすいとは限らない。性役割の波及に関する研究は、職業における性比率を、性役割の代理指標として用いていることにも限界がある。

 

接触仮説と数的支配

  • 接触仮説は、性役割期待を強調するのではなく、ハラスメントは特定の職場における男女の接触の関数であると見なす。ここでは、数的な支配は、規範的な支配と相互に関連しつつも、区別されるものとなる。職業における性比率ではなく、日常における女性の男性との接触に関する回答に基づいた際に、接触仮説は直接的に支持される。
  • Gruberの分析は、数的支配(職場におけるジェンダー比率)と規範的支配(職業における性比率)の相対的な効果を解きほぐそうとした、数少ない研究の1つである。男性との接触の量、すなわち職場におけるジェンダー比率は、ハラスメントの経験の生じやすさと、特定の種類のハラスメントの両方を理解する上で役立つことが見出されている。規範的支配の説明力は、数的支配よりも弱い。Gruberは、ジェンダー支配の測定において、職業における性比率のみに頼った研究は、おそらく性役割の効果を過大に推定し、ジェンダーの数的な文脈を過小に推定することになると結論づけている。

 

組織文化

  • 組織文化は、そのメンバーにおける適切な行動規範と価値を表している。よって、ある組織ではセクシュアル・ハラスメントが起き、別の組織ではなぜ起きないかに関して、研究者が文化に目を向けるようになったのは、不思議なことではない。
  • セクシュアル・ハラスメントに寛容な組織文化は、それが生じる頻度の多さと関連している。これに対して、セクシュアル・ハラスメントに対する積極的な政策や、研修や公的な苦情処理手続きを通じて職場文化を変えようとする試みは、環境型ハラスメントを減少させる上でとりわけ効果がある。

 

仕事の組織化

  • 仕事の性質のような技術的な組織化と、社会的な組織化との相互作用をを明らかにした研究は多くない。この分野においては心理学者の影響力が強く、個人とその相互作用への関心が優勢であることが、部分的な理由である。仕事の組織のされ方に目を向けると、肉体的に過酷であったり、反復的であったりする仕事のように疎外された労働条件は、男性的な仕事における女性のハラスメントの経験を部分的に説明するかもしれない。Cockburnは、「上司に対する戦いにおける、男性の士気と連帯は、時として女性を直接的に犠牲にすることで獲得される」と述べる。

 

ジェンダー化された組織とジェンダーの実践

  • セクシュアル・ハラスメントと、仕事の組織のされ方がどのように関連しているかを明らかにするために、研究者における近年の関心は、組織のジェンダー化されるプロセスと、「ジェンダーの実践」("doing gender")へと向かっている。驚くことではないが、セクシュアル・ハラスメントの社会構築的な性質を強調する研究は、定性的なものである。この研究は、性比率や組織文化という変数を超えてセクシュアル・ハラスメントを説明し、異性愛に関する組織の規範や、権力がジェンダーを構築し、セクシュアル・ハラスメントを促進することに注意を向けている。
 
個人レベルの説明
  • 社会文化的な特徴や個人の権力の源泉以外にも、加害者の特徴とセクシュアル・ハラスメントの関連は、心理学者によって研究されている。Pryorは、Likelihood-to-Sexually-Harass尺度を用いて、この尺度で高い得点を上げる男性は、男女の性的接触に寛容な状況において、よりハラスメントを行いやすいことを見出している。

 

セクシュアル・ハラスメントに対する反応

  • 研究から示されているのは、女性のセクシュアル・ハラスメントに対する反応は、回避、流布、交渉、対立のどこかに位置するというものである。ほとんどの女性は、自らの経験を報告しない。むしろ、ハラスメントを無視する、冗談や同調によってそらす、加害者を避けることがより多い。仕返しや仕事を失うことへの恐怖、さらに状況を悪化させることへの恐怖など様々な理由によって、女性はハラスメントを報告しない。Fitzgeraldらは、なぜ被害者が積極的に反応しないのかという問いよりも、女性が反応する様々な方法へと問いを移行し、認知的な戦略を取り入れるべきだと主張する。
  • 定性的な研究によれば、セクシュアル・ハラスメントへの反応は、職場における権力の組織のされ方に埋め込まれている。女性や臨時雇いの男性は、雇用における裁量が小さく、資源が少ないために、仕事を続けたいと思うならば、ハラスメントに耐えるか、無視するしかない。一方で、アフリカ系アメリカ女性の消防士は、自らの人種とジェンダーによって、すでに外部者であり周辺的な労働者であるとみなされるため、セクシュアル・ハラスメントに対して闘う上で失うものがないと信じているという研究もある。

 

セクシュアル・ハラスメントの結果

  • 仕事の結果に関しては、セクシュアル・ハラスメントは、士気の低下、常習的欠席、仕事における満足度の低下、機会平等の感覚の低下、職場における人間関係の悪化をもたらす。辞めることを余儀なくされる被害者もいる。生産性の低下、離職の増加、医療費の賠償という面で、組織も代償を払うことになる。さらにセクシュアル・ハラスメントは、不安、抑うつ、睡眠障害、吐き気、ストレス、頭痛とも関連していることが示される。
  • ハラスメントの結果に関する研究には課題がある。ほとんどの研究は、ありうる結果を挙げる傾向にあり、それがどれほど拡がっているのかや、内在する複雑なプロセスについては不十分である。Fitzgeraldらは、被害者におけるセクシュアル・ハラスメントの影響の大きさを測る上で、被害の履歴、個人レベルの資源、態度といった、被害者の脆弱性に関する測定を含めることを推奨している。
  • 心理学者は、セクシュアル・ハラスメントの心理的な結果に関するほとんどの研究において、責任を負っている。社会学者はセクシュアル・ハラスメントが女性に与える、ライフコースコース上の影響を問うべきである。すなわち、セクシュアル・ハラスメントは被害者の人生において転機となり、ライフコースにおける前進を変容させ、仕事・家族における機会の妨げとなることがある。

 

セクシュアル・ハラスメントを研究する:将来に向けた課題

長期の研究と多重(multiplicity)サンプリング
  • 多くの実証分析を制限しているのは、一時点の質問紙調査に頼っているということである。たとえば、組織文化の影響に関する現在の研究は、回答者がハラスメントを経験した後における、文化の感じ方を尋ねている。時系列データなしには、組織における寛容性とセクシュアル・ハラスメントが起こることの関連の意味するものは、不明瞭である。
  • 組織についての研究者は、多重サンプリング、あるいは「ボトムアップ」サンプリングの技術に目を向け、ミクロ・マクロレベルを関連させたサンプルを用いている。個人、監督者、人事部長への面接と組み合わせることで、多重サンプリングは、セクシュアル・ハラスメントと組織の政策、文脈、仕事上の結果の関係についてのデータをもたらすことが可能になる。
ジェンダー化されたプロセスを明らかにする:定性的研究の必要性
  • 質問紙調査への依存に抗して、定性的な方法による研究の必要性を唱える研究者が増加している。この理由の一部として、重要な概念とプロセスが、質問紙調査の項目では十分に捉えられていないという信念がある。たとえば、組織形態の構造が、それ自体としてジェンダーによって構造化されているということは、多く指摘されている。くわえて、定性的な研究は、組織におけるセクシュアリティとセクシュアル・ハラスメントを取り巻く曖昧さを明らかにすることも可能である。
人種とセクシュアル・ハラスメント
  • 人種・エスニシティに関わるセクシュアル・ハラスメントの研究は、十分でないと指摘されている。ほとんどの研究は概念的なものであり、性差別と「性的人種差別」の区別を強調したり、性的魅力に関する人種的な規範がいかにして、有色女性の仕事の機会を制限しているかを強調したりするものである。Rospendaらは、権力が逆転する状況のハラスメントに関して、人種がいかにして階級・ジェンダーと交差するかを分析している。たとえば、この研究では黒人における男性らしさの規範によって、黒人の男性教員が、白人の男性事務員からのハラスメントを報告することに躊躇する要因となりうることが理論化されている。
男性へのセクシュアル・ハラスメントと同性愛者へのハラスメント
  • 男性に対するセクシュアル・ハラスメントと、同性愛者のハラスメントは、十分に研究されていない現象である。Gutekの研究によれば、男性は「社会的な性的」行動を、女性にくらべて脅威とは解釈しにくい傾向がある。一方で、男性は女性が感じないある種の行動をハラスメントであると感じる。これらの行動には、男性をステレオタイプ化するような、女性からの発言が含まれる。男性においてはまた、男性の仲間どうしにおいて、女性に対する冗談に加わらない場合に、男らしくないとラベリングされることが報告されている。
  • 男性へのセクシュアル・ハラスメントと関連するのは、同性愛者へのハラスメントの問題である。ゲイやレズビアンへのハラスメントが考慮されるべきだけではなく、異性愛者の男性による異性愛者の男性へのハラスメントも研究されるべきである。すでに述べたように、セクシュアリティと「過度の男性らしさ」("hyper-masculinity")は、多くの組織文化における構成要素となっている。異性愛の規範は、女性を排除したり、性的な対象としたりするだけではなく、男性の行動も制約するのである。Williamが指摘するように、男性による女性へのハラスメントに焦点を当てることは、「職場における他の性別化された権力の力学」を無視することになる。

 

結論

  • このレビューの範囲を超えるものの、将来の研究において必要なのは、セクシュアル・ハラスメントの申し立てと、法的・制度的環境の関係である。セクシュアル・ハラスメントの結果に関する研究は、被害者、加害者、そしてセクシュアル・ハラスメントの特徴に焦点を当てており、法社会学の理論的洞察を活かしていない。Blackの研究は、セクシュアル・ハラスメントにおける第三者の介入に関して、組織の地位がどのように関わるかを概念化する道筋を示している。
  • くわえて、犯罪学の研究も十分に利用されていない。セクシュアル・ハラスメントの研究はまだ始まった段階であり、研究者は未だ測定、データ収集、理論的発展の問題と格闘している。

 

「僕はやっぱり、研究者に向いてないのかも……しれない」

 

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『医龍(9)』pp.154-6

 

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『医龍(16)』pp.140-2

 

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『医龍(22)』pp.97-100

 

 常に自信に満ち溢れていて、能力や実績を積み重ねてゆく人もいます。しかし、伊集院くんのように、迷いながら成長してゆくモデルもあるということは安心できますし、周りもそのことを信じてあげなければいけないということですね。

Rosenbaum (2001) Beyond College for All: Career Paths for the Forgotten Half

Rosenbaum, James E. 2001. Beyond College for All: Career Paths for the Forgotten Half. New York: Russell Sage Foundation.

 

 James Rosenbaumの90年代の論文の知見をまとめて、理論的・政策的な示唆が論じられている本です。先日に引き受けた論文の査読を行う上で、関連するかもしれないと思って、手に取りました(結局、その査読コメントには反映させなかったのですが)。
 若年者のトランジションを論じる上での、ネットワークと情報の重要性がかなり強調されています。これだけならば、Granovetterがすでに70,80年代に明らかにしていたことですが、本書はさらにその上を行こうとしている感じですね。
 11章の"Theoletical Implications: Using Institutional Linkages to Signal and Enhance Youth's Capabilities"から、少しまとめてみましょう。すでに個別の論文を読んで知っていたことも多いものの、強い紐帯の強み、Colemanの社会関係資本とリンケージモデルの関連、リンケージが差別を減らす可能性、人的資本とシグナルの関係といった点は、本章を読んで新たに学びました。

 

  • アメリカの労働市場政策は、以下の5つのような仮定に基づいている。(1)もし雇用主が生徒の学力スキルについての情報を必要としているならば、学校に対してそれを提供するにように要請するはずである。(2)もし雇用主が面接にもとづいて採用するならば、それは面接によって適切な生徒を選別できるという自信を持っているからである。(3)雇用主は、一般的な市場プロセスによって、適切な情報を得ることができる。(4)生徒はどのように仕事を得ればよいのかを知っており、それゆえ応募の際に手助けは必要としていない。(5)生徒は労働市場のインセンティヴを理解しており、学校おける努力の欠如は、意欲が低いことを示している。
  • これら5つの常識に基づく仮定は、しばしば間違っている。第一に、雇用主はしばしば労働者の学力スキルに対する不満を述べるにもかかわらず、学校から利用可能な情報を使っていないのである。第二に、雇用主は面接に頼るかもしれないが、その採用方法に自信を持っているからではない。その他すべてのものに対して、より大きな不信を持っているためである。第三に、労働市場政策は雇用主がより多くの情報を欲しているようにみなしているが、実際にはよりよい情報が必要とされているのである。雇用主に対する面接の結果は、研究者は雇用主が信頼できる情報を得ることの困難さを過小評価していることを示している。(4)若年者は、しばしばどのようにして仕事を獲得すればよいのかを知らない。労働市場政策は、見えざる手がこのプロセスに対処すると見なしている。雇用サービスも、学校におけるカウンセラーも、若年者の仕事探しを手助けしていない。(5)学校における努力を行わない生徒は、意欲が欠如しているわけではない。教師は生徒に対して、学校が将来のキャリアに関係していることを伝えるが、生徒はこれらのメッセージを虫のいい、信用できないものとして無視してしまっている。学校における努力は、内的な動機づけのみによって決まるのではなく、学校が将来にどのように関係するかという認識によっても決まっている。
  • 新古典派経済学は、競争がより効率性をもたらすと主張する。仕事の数と応募者を増やすことが、マッチングを改善するというものである。リンケージは特定の学校に有利さを与え、応募者(または仕事)の数を制限し、競争を制限し、効率性を損なうものだと見なされる。
  • しかしながら、新古典派経済学理論は、適切な情報が利用可能であると仮定している。雇用主に対する調査の結果では、広告によってより多くの応募者がもたらされるものの、その中から選別することは難しく、しばしば好ましくない結果に至ることが述べられている。
  • リンケージは雇用主と生徒がよりよい意思決定を行う手助けを行うことで、効率性を改善する。雇用主は特定の学校とのリンケージによって、採用を行う上での信頼できる情報がもたらされる。そして、このプロセスは雇用主が自らの判断によって面接を行うよりもはるかによいことが述べられている。
  • 皮肉にも、応募者の絶対数を減らすことによって、リンケージは雇用主が考慮できる応募者の比率を増やす可能性がある。これは、通常は見出すことが困難であるような、望ましい性質に関わる新たな情報を、リンケージがもたらすためである。
  • シグナリングのモデルは、情報にはコストがあり、このコストによって雇用主は意思決定を行う上ための、適切な量の情報を得られないと主張する。調査の結果から明らかになったことは、雇用主は潜在的に価値のある情報を、無関係あるいは信用ならないものとして、無視してしまっているということである。単に情報を増やすだけでは、それが利用されることは保証されないのである。
  • ネットワーク理論は、弱い紐帯が強い紐帯よりも優れていることを主張する。それは、弱い紐帯がより多くの求人に関する情報をもたらすからだという。この理論では、強い紐帯は求職者がすでに知っているものと類似した情報しかもたらさないとされる。
  • 弱い紐帯は求人の機会を拡げる上では優れているかもしれないが、「取引を成立させる」(clinch the deal)ためには十分ではない。雇用主は採用を決める前に、信頼できる情報を欲する。そのためには強い紐帯が必要なのである。
  • 雇用主が不信を乗り越え、若年者を評価する上での有用な情報を得ることを説明するモデルが必要である。このモデルは、雇用主が応募者について、通常は信頼しないような他の団体からの情報を、どのようにして信頼するようになるのかを記述しなければならない。
  • Colemanは、社会関係資本が個人の価値を高めることを論じた。社会関係資本は3つの形態が区別される。(1)情報の経路、(2)規範的な制裁、(3)義務の感覚である。Colemanは社会関係資本の形態を様々な例によって示したが、多くは閉鎖的な民族的な共同体におけるものである。しかしColemanのモデルは、社会関係資本が新たな関係を創出することで、促進される可能性へと拡張することができる。
  • リンケージは、異なる制度の間における、継続的にかつ優先的に行われる取引であり、ある制度間におけるキャリア移行を可能にするものとして定義される。Colemanの例においては民族的なつながりから自動的に文脈が生まれるとされているのとは異なり、リンケージは新たに作り出されるものであり、またしばしば情報の質を高めるために意図的に作り出されるものである。リンケージは、情報の経路、規範的な制裁、互酬性という社会関係資本を生み出す上での前提条件をもたらす文脈を作り出すことによって、情報の性質を変化させる。
  • 弱い紐帯は、出席率や成績についての客観的な情報は伝えることができるものの、働くことに対するレディネスや忍耐強さなどの測定が困難な属性については伝えることができない
  • 雇用サービスを改善し、より多くの情報を提供できるようにすることが、改革案として主張されてきた。しかしながら、雇用サービスは人々が仕事を得る手助けをする上で、あまり成功していない。雇用主はほとんどの情報を信頼しておらず、また応募者は仕事に関する情報を信頼していないので、もっとも包括的なコンピュータ化されたシステムでさえ、役に立たないのである。さらに、第三者による橋渡しは互酬性を妨げる可能性がある。強い紐帯の間に、雇用サービスのスタッフが仲介する役割を担うことで、情報の信頼性が低下してしまうかもしれないのである。
  • リンケージは地位の高い個人を手助けするだけではなく、もしリンケージがない場合には価値あるシグナルを欠いてしまうような、地位の低い個人を手助けもする。MeyerとRowanは、伝統的なエリート学校における「特権」(charters)を描いたが、新しく設立された非エリート学校においてもリンケージは見出される。
  • リンケージは、えこひいきと差別を促すようにも見える。しかし、実際にはある形態の差別を減らすことができるのである。シグナリングのモデルは、統計的差別の世界を描く。雇用主は生産性を推測する上で、容易に入手可能な情報を用いるとされる。
  • 統計的差別と偏見(prejudice)の区別は重要である。黒人の雇用主が、公営住宅に住む黒人の若年者を雇いたくないと思うことがあるのは、人種的な偏見ではなく、統計的差別によるものである。すなわち、公営住宅に住む人々は問題行動が多いという認識に基づくものである。この認識は間違っているかもしれないが、もし正しい場合には、雇用主の態度を変えることによって、採用行動を変えることはできない。
  • しかし、統計的差別に基づく行動は、よりよい情報によって変えることができる。偏見によって引き起こされる採用に対しては、雇用主の態度を変えるような政策を実施する他はない。しかし、統計的差別の場合には、より生産性を予測し、偏見の選抜基準をもたらすような、政策が可能である。
  • 人的資本は学校と訓練プログラムにおいて通常、焦点になるものであるが、シグナルもまた重要である。若年労働市場に問題は部分的には人的資本の不足によって起こるものの、リンケージのモデルは情報の不確実性がまた原因である可能性を示している。もし生徒の人的資本が改善したとしても、雇用主がそれを検知できないのであれば、何の利益も生まれないだろう。もし生徒の人的資本がまったく変わらないとしても、雇用主が得ることが困難であり、採用に関連するような信頼可能な情報がもたらされるのならば、生徒の雇用見込みは改善するだろう。
  • 訓練プログラムの評価研究の中には、訓練後の収入への効果がないか、あるいはマイナスであることを示すものがある。ありうる解釈としては、これらのプログラムはよい訓練を提供しているものの、負のシグナルを伝達してしまっているというものである。これらのプログラムは職歴に困難を抱えた人々のみに参加を認めているため、雇用主が採用をする上でのスティグマとなってしまっているのである。
  • 多くの訓練プログラムは参加者にスティグマを与えているものの、デトロイトにおけるFocus/Hopeという低所得の黒人に対するプログラムは、シグナリングの問題を明確にしている。Focus/Hopeでは、参加者すべてが高卒学歴(またはGED)を持っていることや、ドラッグの問題がないことを保証することで、当初のスティグマを打ち消している。さらに、参加者にはほぼ完璧な参加を求め、よい労働の習慣と優秀なスキルを卒業前に身につけさせることによって、このプログラムは卒業生が高い基準に達しており、よい労働者になることを保証している。結果として、Focus/Hopeは自動車産業において、高所得で高スキルの労働者を提供することができるようになった。
  • 政策立案者は、単に人的資本を形成することよりも、それをどのようにシグナルとして伝えるのかに、より力を向けるべきである。そのためには、よりよいシグナルを用いることと、採用に関連し、信頼可能な情報が伝わるような、社会的文脈を作り出すことが必要である。

 

 日本の高卒労働市場の変貌と、大卒労働市場の今後のあり方を考える上でも、Rosenbaumの研究はもう一度評価されるべきなのですが、現状は不十分であるように思われますね。特に、どのようにして信頼可能な情報を保証するのかという論点が、軽視されているように感じられます。単に人的資本を促進するだけでは駄目で、それが雇用主にシグナルとして伝わらなければならないという主張は重要です。
 関連して、ドイツの徒弟制についても、7章で注意が促されています。しばしばドイツの徒弟制は、21世紀における学校と雇用主の関係についての理想的なモデルとされるものの、訓練という面ばかりが注目されていると指摘されています。それだけではなく、ドイツの徒弟制の長所は、学校と雇用主の双方に対して規範を作り出し、雇用主は学校から優秀な生徒を採用しようとし、学校もまた雇用主に優秀な生徒を送ろうという責任感をもたらしていることにあるとされています。

 

Kugel (1993) How Professors Develop as Teachers

Kugel, Peter. 1993. "How Professors Develop as Teachers." Studies in Higher Education 18: 315-28.

 

 学生が学ぶ能力を獲得してゆくように、大学教員も教授能力を段階的に発展させてゆくというモデルを提示している論文です。

 

  • 第1段階(自己):教員は教室における自己の役割について、主に意識を向けている。
  • 第2段階(科目):第1段階における役割を、少なくともある程度は獲得できたと感じられるようになると、自らが教えるべき科目の理解に意識を向けるように移行する。
  • 第3段階(学生):学生が教えられたことをどれだけ吸収できるのかに、目を向けるようになる。
  • 第3段階と第4段階の間では、教授(teaching)から学習(learning)へという、より一般的な移行が起きる。
  • 第4段階(能動的に捉えられた学生):学生が教えられたことを学ぶ手助けをすることに、典型的には移行する
  • 第5段階(自立的に捉えられた学生):学生が教えられたことを自ら学ぶ手助けをする
  • この他に、第0段階として「準備」(大学院時代)と、第6段階として「調律」(tuning)がありうる。

 

 これはインフォーマルな観察を通じて構築された、あくまで典型的と考えられる1つのモデルであるとされています。また、あるいはある段階から進まない教員もいることや、生物学的な発達とは違って、後の段階ほどより能力が高いことを意味するとは限らないことも断られています。

 いずれにせよ、自分の経験を振り返ってみる上では、なかなか興味深いモデルだと思いました。たしかに初めて教壇に経った際は、まさに著者の述べるような第1段階であり、いったいどのように話を始めたらよいのか、若干途方に暮れた記憶があります。

 第3段階から第4段階への移行は、いわゆるteachingからcoachingへというものですね。以前に読んだ、古宮(2004)でも中心的な考え方の1つでありました。coachingにおいては、教師が教えることは、むしろ少ないほどよいという主張がなされます。

小泉純一郎・吉原毅『黙って寝てはいられない』

 

黙って寝てはいられない

黙って寝てはいられない

 

 

 小泉元首相が、原発ゼロ推進やトモダチ作戦被害者支援基金のために、各地で行った講演を編集したものになっています。

 「科学は真理を追求するもの」だという古典的な規範があります。しかし実際のところは、専門家がいかに利権や業界内での自分のポジションの維持に腐心しており、真理や公益がおざなりにされているのかというのが、原発事故は明らかにしたと思います。

 5年経った今でも、電源喪失の本当の原因が、地震だったのか津波だったのかも未だに明らかになっていませんし、原発が本当に安いのかどうかを検証するためのデータも十分に公開されていません。やはり、人間は自分の誤りを認めたくないし、既得権益を手放すのも嫌う存在なのだろうかと感じます。かくいう自分も、大学で研究する身として、研究の評価のされ方が正しさとは関係のない次元で行われる場面は、しばしば経験しています(原発事故のような深刻な問題は起こさないとはしても)。

 そうしたことを踏まえると、首相退任後とはいえ、かつての自分の判断を反省できるというのは立派なことだと思います。特に74歳という年齢を考えれば、これだけ精力的な活動に取り組めるというのは、並大抵のことではありません。一方で、イラク戦争に関しては当時の判断を正しかったと思っているようなのは、残念なところではありますが。