Boice (1990) Procrastination, Busyness, and Bingeing

Boice, Robert. 1990. "Procrastination, Busyness, and Bingeing." Behaviour Research and Therapy 27: 605-11.

 

 研究者が論文を書くこと(というか、むしろ書かないこと)について、多くの業績を出されている先生ですね。1984年には、「なぜ研究者は書かないのか」(Why Academicians Don't Write)という直球なタイトルの共著論文もあります。

 本論文は、テニュア・トラックに乗った新人教員が、どのように時間を使い、どれだけ論文を書いているのかを調べています。さらに、生産性の低い研究者に対する介入実験の結果が紹介されています。小サンプルの事例ではあるものの、興味深いデータになっています。

 

  • 研究時間について回顧的に尋ねた場合と、より正確に記録をつけさせた場合を比較すると、回顧的に尋ねた場合の方が、長い労働時間を答える傾向が見られる。こうした過剰な見積もりは、通常よりも忙しい時期をより記憶して回答していることが、理由として考えられる。
  • 回顧的な回答では、非常に長い労働時間が答えられているにもかかわらず、同時に論文の執筆については非常に楽観的な予測が行われやすい(計画通りに執筆が進むと思われている)。
  • 一日の大半を一つの作業に当てる研究者(bingers)は、そうでない研究者(nonbingers)よりも、多忙感を強く持っている。これは多忙であると感じると、他の作業による干渉をより嫌うようになるためだと考えられる。
  • また、bingersは過剰に授業準備に時間を割り当てていると判断される傾向があった。
  • bingersは実際に執筆できた論文の数がより少なく、生産性が低い。しかし、同時に論文を書くことについては、nonbingersよりも高い優先順位を置いている。これはMinskyの法則を表している。すなわち、私たちがもっとも高い優先度を置くものは、非現実的なものになりやすいがゆえに、実際に行われる確率はもっとも低くなるというものである。
  • 多くの研究者は、論文執筆のためにはまとまった時間を確保することが必要であると思っている。しかし執筆に過度な優先度を置き過ぎると、そのために必要と感じられるまとまった時間を確保できることはめったにないために、実際の執筆につなげることが困難になる。
  • 執筆の遅滞(procrastination)を解消するために、研究者に対する介入実験を行った。協力に応じた研究者に対して、一日あたり15~60分の執筆計画を立ててもらった。さらにこうした計画を実施できているかどうか、実験者が定期的に確認に訪れることに応じてもらった。
  • 例外はなく、生産性の低かった研究者は、規則的な執筆の習慣を身につけ、より多くの成果を出すことができるようになった。さらに介入後には、多忙感が弱くなり、また執筆に高い優先度を置く割合も低下したことが確認された。
  • 一つの作業に集中しすぎて結果的に論文を一気に書き上げることになることが、生産性の低下につながることは、あまり意識されていない。
  • 研究者は、論文を執筆して成果を出すことが生き残りのためになり、他のキャリア上の報酬に大きくつながることを知っている。しかし同時に、執筆は難しい仕事であること、すなわち長期的な努力が必要であり、リジェクトや恥を伴うリスクがあることも知っている。
  • 解決方法はおそらく、論文の執筆を現実的にほとほどか、あるいは低い優先事項にすることである。執筆は楽しむべき仕事であると説得することに努めるのではなく、やはり厄介なものとして表されるのが適切なものかもしれない。このシナリオでは、執筆は渋々とではあるかもしれないが、日々のより重要な仕事の中の短い時間で行われるべきものである。従って、教育のように他のもっと魅力的な仕事と競合するものであるかのように、執筆の仕事を取り繕う必要はない。
  • 本論文における証拠は、新人教授が毎日の短い時間に執筆を行うことによって(とりわけ外的に執筆を促すことを応じた際に)、はるかに生産的になるというものである。
  • 実際のところ、毎日の短い時間で執筆を行うように介入した際には、いくらかの抵抗も見られた。しかし、参加した研究者たちは、執筆を現実的に低い優先事項に置くことは、うまく働くことを認めるようになったのである。

 

 著者は、書くことは才能によるものではなく、訓練によって身につくものであるという考えを、一貫して持っているようですね。そもそも本論文が、Behaviour Research and Therapyという、感情・行動療法に関する雑誌に載せられているのも、適切な介入よって誰でも書けるようになるのだ、という著者の考えを反映したものだと思われます。

Kundzewicz and Koutsoyiannis (2005) "Editorial—The Peer-review System: Prospects and Challenges"

Kundzewicz, Zbigniew W. and Demetris Koutsoyiannis. 2005. "Editorial—The Peer-review System: Prospects and Challenges." Hydrological Sciences Journal 50: 577-90.

 

 ピアレビューの仕組みとして、(1)blind、(2)half-blind、(3)openという、3つの仕組みが区別されています。blindは著者と査読者が相互に匿名の関係にあり、編集者しか名前はわからないというもので、openは逆に著者と査読者が相互に相手が誰か分かる状況で査読が行われるというものです。half-blindは、査読者は著者が誰か分かるものの、著者は査読者が誰かわからない非対称な仕組みとのことです。

 まったく知らなかったのですが、本論文のようにhalf-blindが圧倒的に多い分野もあるのですね。このデメリットとしては、著者が有名な大学に所属しているかどうかや、すでに業績を出しているかどうかという、論文の内容とは無関係な要素が、査読の質や結果に影響する可能性があることです。ではなぜblindにしないのかというと、コストの問題が挙げられています。

 投稿原稿から、単に著者の名前や所属先を削除するだけでは十分ではなく、論文のテーマや引用している文献から著者が実質的に分かることがあるため、blindの仕組みを徹底するのは難しいとのことです。実際、査読者に対するある調査によると、42%の事例において著者が誰かを正しく特定できていたとされています(一方で別の研究によると、逆に著者が査読者を正しく特定できる割合は、わずか6%)。

 half-blindの問題点を解決するために、openの方向に変えることもできると主張されます。査読者の名前を公開することによって、査読の質や結果に影響は見られないとする、実験の結果もあるそうです。つまり、著者が有名な研究者であることによって、査読者が萎縮して基準を緩めるというようなことは、必ずしもあるとは言えないということになります。しかしそもそも、署名入りの査読を引き受けたいという研究者は多くなく、匿名の査読でさえ査読者を確保するのが難しい状況の下では、広く定着させるのは難しいかもしれないという問題点が挙げられています。

 

指数分布の性質

 

たまには、TeXの練習をしましょう。 

確率変数 Xが次の確率密度関数を持つ指数分布に従うものとする。 

 f(x)=\lambda e^{-\lambda x}, x \geq 0, \lambda \gt 0

 

(i)  E(X)=\frac{1}{\lambda}を示せ。

 

(ii) 任意の a \gt 0に対して, P(X \gt a)=e^{-\lambda a}を示せ。また, Xの中央値を求めよ。

 

[2013年RSS/JSS試験(Higher Certificate)]

 

(i)  E(X)=\int_{0}^{\infty}xf(x)dx=\int_{0}^{\infty}x\lambda e^{-\lambda x}dxである。 

 

 \int g(x)h'(x)dx=\int g(x)h(x)dx - \int g'(x)h(x)dxであるから,いま g(x)=x, h'(x)=\lambda e^{-\lambda x}と考えることにより,

 

 E(X)=[-xe^{-\lambda x}]_{0}^{\infty}+\int_{0}^{\infty}e^{-\lambda x}dx

 =0 + \frac{1}{\lambda}=\frac{1}{\lambda}

 

(ii) 中央値 Q_{\frac{1}{2}}(x)は, P(X \gt Q_{\frac{1}{2}}(x)) = \frac{1}{2}を満たす。

 

 P(X \gt a)=\int_{a}^{\infty}\lambda e^{-\lambda x}=[-e^{-\lambda x}]_{a}^{\infty}=e^{-\lambda a}である。

 

 a = Q_{\frac{1}{2}}(x)とすると, e^{-\lambda Q_{\frac{1}{2}}(x)}=\frac{1}{2}であり,

 -\lambda Q_{\frac{1}{2}}(x) = -\rm{log2}となるから, Q_{\frac{1}{2}}(x)=\frac{{\rm log2}}{\lambda}

Riisgård (2000) "The Peer-review System: Time for Re-assessment?"

Riisgård, Hans Ulrik. 2000. "The Peer-review System: Time for Re-assessment?" Marine Ecology Progress Series 192: 305-13.

 

 ぼちぼち査読を引き受けさせていただく機会も生じてきたのですが、まだ経験が浅いので、いろいろとわからないことも多いです。前にある先生と話していたら、「だいたい電車の中で読んで、2時間くらいでコメントをまとめる」とおっしゃられていて、「そんな短い時間でいいのだろうか?」と思ってしまったこともあります(細かい表現や関連する文献のチェックなどを行っていたら、まず2時間では終わりません)。しかし、慣れてきたり、ベテランになって時間がなくなってきたりしたら、それくらいが普通なのかもしれません。とりあえず査読者としての心構えや、査読という仕組み自体について、研究の合間に少し勉強をしています。

 本論文は、査読経験者や編集委員経験者による、様々な問題点の指摘や改善策の主張をまとめたものになっています。私とかなり違う分野ではありますが(たぶん論文1本あたりのページ数は短いものの、投稿論文の数=審査しなければならない数はかなり多い)、ある程度は普遍的な問題が扱われていると感じました。

 

  • ピアレビューは、科学における研究の質を保つ上で、最良の方法であり続けている。しかしながら、昇進やテニュアの獲得において業績を出す必要性が高まっているために、ますます多くの論文が投稿されるようになっている。
  • よい査読者を見つけるのは容易ではない。多くの研究者は査読を引き受けることは、時間をとられる割にはリターンが小さいものだと感じている。
  • 査読の仕事は、その価値がより認識されるべきである。しかし、履歴書に査読経験や編集委員の経験を書けるようになったとしても、大学内での年次評価にはほとんどよい影響を持たないだろう。
  • 査読者に金銭的な報酬を与えることは考えられる。しかし、研究者がもっとも欲しいのは時間である。査読の仕事は誰かを雇って補助してもらえる部分は小さく、金銭的な報酬によって新たな時間を作り出すことは難しい。また、査読の仕事を引き受けたがらないのは年配の研究者に多く、これらの人々は金銭には動かされにくい。
  • 投稿者に投稿料を課すのはどうか。これは投稿される論文の完成度をある程度は高めることになるだろう。しかし、研究費を十分に持たない若い研究者が成果を出しづらくなる可能性がある。また、そもそもこのようなお金の使い方は、研究助成の規定によって許可されないかもしれない。
  • おそらく、もっともよい改善策は「現物報酬」(payback in kind)だろう。あるジャーナルに投稿しようと思っている研究者は、そのジャーナルにおける査読依頼を拒否するべきではない。査読依頼を継続して断る研究者に対しては、投稿を受け付けないようにすることも考えるべきである。研究者はそのキャリア全体を通して、投稿する3倍の数の論文の査読を引き受けるべきである。

England and Kilbourne (1990) "Feminist Critiques of the Separative Model of Self: Implications for Rational Choice Theory"

England, Paula and Barbara S. Kilbourne. 1990. "Feminist Critiques of the Separative Model of Self: Implications for Rational Choice Theory." Rationality and Society 2: 156-71.

 

 第一著者のPaula Englandは、昨年のアメリカ社会学会長ですね。労働市場におけるジェンダー差別の研究で有名であり、女性が多い仕事であることによって価値の引き下げ(devaluation of feminized work)が起きていることなどを主張しています。Paul Allisonとの共著論文は、パネルデータ分析の方法論の面でも興味深かった印象があります。

 本論文は、合理的選択理論の主要な仮定に対する、ラディカルなフェミニズムの立場からの批判となっています。社会学における合理的選択理論の研究では、よく言及される論文のようなので読んでみました。

 本論文では、社会学的な合理的選択理論は、新古典派経済学とほとんど同じ仮定を用いていると批判されています。しかし、この年にColemanの『社会理論の基礎』が出版されたことや、おそらく本論文の批判も踏まえて、その後に少なからぬ発展があったのではないかと思います。

 本論文の批判は全体的に当てはまっていると思うし、勉強になりました。特に、社会学者が「不利」という言葉を用いる際に、効用の個人間比較が可能なことを暗に仮定しているという指摘は、社会階層研究においてもそうではないかと感心しました。しかしながら、ラディカル-文化フェミニズムにおける自己の分離/結合モデルが、どこまで有望な修正をもたらしうるのかは、疑問なところがあります。行為者間の権力や従属ということであれば、この頃にはすでに合理的選択を取り入れた分析的マルクス主義の発展が起きていると思うのですが、本論文では言及がないですね。

 個人的には、Boudonが提唱するような、「認知的なフレーム」に注目して、合理性の仮定を弱める方向性が興味深いと思っています。

 

 

フェミニストによる自己の分離・結合モデルの議論

  • 統合されたフェミニズム理論は存在しないものの、3つの区別が可能である。それらは、リベラル・フェミニズム、社会主義フェミニズム、ラディカル-文化フェミニズムである。そしてこのうち、ラディカル-文化フェミニズムは合理的選択理論の批判において有望である。そのもっとも重要な主張は、「分離した自己」(separative self)と、「感情的に結合した自己」(emotionally connected self)という、異なる自己の捉え方にある。
  • 多くの西洋思想には、前者の「分離した自己」が見られ、かつこれは男性的な要素としてみなされきた。これは政治哲学における古典的なリベラリズムに端を発するものであり、契約主義的な伝統(Hobbs、Locke、Rousseau、Kantなど)においては、「自然状態」から契約による協調状態に移行すると主張されてきた。そして契約の前後においては、男性は分離した自律的な存在であることが想定されてきた。
  • 分離した自己の強調は、発達心理学においても見られ、個別化と成熟は同義であると見なされてきた。Carol Gilliganは、Kohlbergの道徳性発達理論に対するフェミニズムからの批判を提示している。Gilliganの研究によれば、女性の道徳的な推論は、自己と他者の感情的な結合に由来する、責任とケアの倫理にしばしば基づいている。Kohlbergの尺度では、女性は低い得点になりがちである。しかし、これは女性の欠陥によるものではなく、道徳の概念が分離した自己に偏ったものになっているためだと、Gilliganは主張している。
  • フェミニストは、男性において分離した自己が強調され、女性において感情的に結合した自己が強調される必然性はなく、この非対称性が女性の従属的な状態を生み出していると指摘してきた。しかし、この非対称性について、リベラル・フェミニズムは分離した自己を男女双方において賛美するのに対して、ラディカル-文化フェミニズムは、結合した自己に対して同等の価値を与えようとするのである。

 

合理的選択理論における仮定の評価

個人は利己的であるという仮定

  • 合理的選択理論の「理念型」である新古典派経済学には、主に4つの仮定がある。それらは、(a)個人は利己的である、(b)効用の個人間比較は不可能である、(c)個人の嗜好は理論にとって外生的であり、変化することがない、(d)個人は合理的である、というものである。
  • 新古典派経済学は利己的な行為者を想定するものの、何が人々に効用をもたらすのかについて、この理論は何も述べていない。そして、たいていの経済学者は、個人の嗜好によって効用をもたらすものは異なるとみなしている。そのため、社会的な承認や利他主義の嗜好を持つ人々がいることは、新古典派的な仮定と矛盾しない。利己主義の仮定が一般的に置かれる理由の一つは、それなしには経済学者が導き出す数学的な予測が不可能となるためである。
  • 社会学的な合理的選択理論もまた、利己的な行為者を一般的に仮定する。「ただ乗り問題」が集合的行為を困難にするという議論は、この仮定が用いられていることの証拠である。
  • 家族を理論化する際に、利己主義の仮定は、特別な問題を生み出す。というのも、家族内には明らかに利他的行為が存在するためである。たとえば、Brintonは日本の親が娘よりも息子に大学教育の投資を行うことは、部分的には自己利益に基づくものだとしている。多くの日本人は、退職後に子どもからの金銭的な援助に依存する必要がある。労働市場における差別を考慮すると、娘よりも息子がよりよい投資対象となる。この説明は、ある程度に筋が通っている。しかし、もし親が完全に利己的であるならば、子どもの教育への投資よりも、より採算性の高い方法を見つけうるだろう。極端に言えば、もし親が完全に利己的であれば、多くの子どもたちは生まれてこないか、幼くしてなくなっているだろう。Beckerは、もう一方の極限にふれている。彼は父親が完全な利他主義者であり、他の家族成員の効用を、自分自身の効用に取り入れる存在として描いている。これによって、Beckerは家族における単一の効用関数という数学的な単純さを得ることを可能になっている。しかしそのことによって、家族の権力や葛藤の問題を検証することを避けてしまっているのである。
  • 利己的な個人という仮定は、自己の分離的なモデルとも関連している。分離的な自己は、感情的に結合した自己よりも、利己的になりやすいのである。もし、分離的/結合的な自己が、分散を持つものであれば、利己性も一定のものとして見なされるべきではない。

 

個人間の効用の比較は不可能であるという仮定

  • 新古典派経済学者は、効用の個人間比較が不可能であることを、明確に仮定している。つまり、2人の個人の交換において、どちらが全体としてより利益を得るのかはわからないということである。これは、利益を測るための「通貨」が効用であり、効用は根本的に主観的なものとみなされるためである。そのため、効用は顕示選好(revealed preference)を通じて序数的に測ることはできるものの、個人間での比較を可能とするような間隔尺度としては測れないとみなされる。
  • 需要独占や供給独占においては、独占者が交換の際に、競争が成り立つ状況よりも大きな利益を得ることを、経済学者は認識している。しかし、これは独占者が交換における他者よりも多くの利益を得ることを意味してはいない。よって、独占の例においても、効用の個人間比較は避けられているのである。
  • このことから、ある構造的な位置を占める集団が、別の集団よりも有利であると、なぜ経済学者が結論付けないのかを理解できる。こうした結論を下すには、様々な報酬を平均化する必要がある。経済学者はこうした平均化が不可能であるとみなしている。なぜなら、個人は自らの効用関数において、報酬に異なる重み付けを行っているかもしれないためである。こうして、実証的な新古典派理論が、分配の問題における保守的な規範姿勢によくなじむことが説明される。
  • 合理的選択理論の外にいる大半の社会学者は、従属、不利、権力などの言葉を用いる際に、効用の個人間比較が可能であることを暗に想定している。合理的選択理論のミクロ社会学版である交換理論は、権力を強調し、基数的な効用の尺度を仮定することにより、これを測定している。
  • また、Colemanは集合的な制裁を通じた規範の発生を議論しており、より大きな権力を保有する行為者は、より規範に制約されにくいと述べている。もし、個人Aが個人Bよりも大きな権力を持っていることが、個人Aが個人Bよりも欲するものをより手に入れるということを意味するのであれば、権力の比較は効用の個人間比較を行うことを意味する。
  • 合理的選択理論に従う社会学者は、経済学者にくらべて一般的な不利を意味する言葉を用いている。かつ、効用の個人間比較を行っているにもかかわらず、これらの研究は経済学者のものと同様にして、権力の帰結と不平等を十分に強調できていない。
  • 分離/結合についてのフェミニストの議論は、効用の個人間比較の仮定にどのように関連するだろうか。効用の個人間比較が不可能であるという信念は、自己の分離モデルに由来するものである。感情的な結合は共感を促進する。そして共感は、効用の個人間比較を促進する。というのも、他者がある状況においてどのように感じるのかを想像できることは、自己と他者の間の効用の測定基準を変換する可能性を意味するためである。

 

嗜好は外生的であり不変であるという仮定

  • 新古典派経済学は、効用の最大化を行う個人を、分析上の基本的要素としている。個人の嗜好は、こうしたモデルにおいて外生的なインプットである。経済学者は嗜好がどこから来るのかを説明しようとはしない。嗜好は、個人が経済的な力と相互作用することによって変化しうるものとはみなされない。
  • 経済学者は近年、その理論を適用する範囲を、他の社会科学の分野にを広げてきている。そのパラダイムによって、フォーマルな市場だけではなく、人間の行動すべてを説明できると主張されている。しかし、そこではすべての社会的な相互作用、たとえば家族における社会化に対してさえ、嗜好は外生的なものだと主張せざるをえないのである。
  • 社会学的な合理的選択理論においても、嗜好は外生的なものとみなされている。くわえて、この分野の大半の社会学者は、嗜好は変化しないという新古典派的な仮定に従っている。この例外は、Colemanによる規範の発生についてのモデルであり、これは規範が内面化される程度によって、選好が変化することが想定されている。
  • すべての合理的選択理論は、嗜好についての仮定を置かない限り、予測を行うことができない。ほとんどのオーソドックスな経済学においては、これは労働者が所得の最大化を求める一方で、企業が利潤の最大化を求めるという補助的な仮定によって対処されている。しかしこれは、経済学者がその理論の構造内部において保持したい仮定ではないだろう。というのも経済学者は、労働者が所得を代償に、非金銭的な労働条件を考慮に入れることがあるのを知っているためである。
  • フェミニストによる自己の分離モデルは、嗜好が不変で外生的であるという仮定の非合理性について、考える手段を提供する。感情的に分離した自己のモデルにおいてのみ、個人は嗜好を変えることなく、相互作用や交換に従事することが可能である。こうした感情的な分離は、きわめて非現実的である。

 

合理性の仮定

  • 経済学も含めたあらゆる合理的選択理論において、合理性の仮定とは、手段と目的の関係について個人が行う認知的な評価に言及するものである。究極の目的は、嗜好によって選ばれる。個人は認知的な評価を正確に行い、意思決定するというのが、合理性の仮定の核心である。
  • 合理性の仮定についての多くの批判は、個人が正確な計算に必要な情報を欠くことか、この計算を行うための認知的な能力に限界があることに向けられている。経済学者は前者の問題に対して、サーチ理論を発展することで答えてきた。後者の問題は、「限定合理性」の概念をもたらすことになった。しかし、これらの批判はいずれも、自己の分離モデルに対するフェミニストの批判とは、明確な関連を持たない。
  • 自己の分離モデルは、合理性の仮定とどのように関わるのか。ここではフェミニストの批判を、個人間の分離を超えて、人間の性質における二分法へと拡張する必要がある。ここで言う二分法とは、離散的か連続的かを問わず、ある尺度における2つの極が、根本的に分離して対置されていることを指す。「反対の性」という表現に見られるように、男女を対置させて見るのが、こうした思考の例である。また別の例としては、西洋思想は、理性と感情を二分的に捉え、感情に対して理性を優位に置くことを特徴としてきた。リベラル・フェミニズムが、こうした二分法とジェンダーと結びつけることを批判したことはよく知られているが、ラディカル-文化フェミニズムによる二分法自体への批判は、あまり知られていない。
  • 合理的選択理論は、根本的に分離した2つの領域を生み出している。第一に、個人の目的を規定する「嗜好」の領域である。第二に、目的を達成するための手段の計算を行う、認知の領域である。しかし実際には、感情と認知がはるかに混ざり合った領域が存在する。ラディカル-文化フェミニズムによるこうした批判は、合理性の概念の修正を要求するのである。

 

結論

  • フェミニストによる、自己の分離モデルに対する批判を受け入れるならば、合理的選択理論はどのように変わるべきだろうか。まず、利己性/利他性は変数としてみなされるべきである。利己性は定数とされるべきではない。
  • 個人間の効用比較の問題については、基数的な比較の尺度を、実現可能な測定の問題として考えるべきである。これは困難を伴うにしても、不可能ではない。これによって、権力の不均衡の原因と結果について研究することが可能になる。
  • 内生的かつ可変的な嗜好のモデルも発展させる必要がある。たとえば、社会学における「社会構造とパーソナリティ」学派は、嗜好と捉えうるような多くの心理的特徴が、個人の構造的な位置に影響されていることを示してきた。
  • 合理性を仮定することには異論はない。もし、合理性を感情に対置させるのでなければ、合理的選択理論の4つの仮定のうち、これはもっとも問題が小さい。
  • 合理性の仮定を保持するとしても、他の3つの仮定を緩めることは、演繹的な予測性が弱くなってしまうであろう。これはジレンマである。しかし、演繹的な予測性のいくらかは代償としなくてはならないだろうが、その利益はコストを上回ると思われる。

 

McRae (2003) "Constraints and Choices in Mothers' Employment Careers: A Consideration of Hakim's Preference Theory"

McRae, Susan. 2003. "Constraints and Choices in Mothers' Employment Careers: A Consideration of Hakim's Preference Theory." British Journal of Sociology 54: 317-38.

 Catherine Hakimの選好理論に対する検証と批判を行っている論文です。女性の就業パターンを説明する上で、Hakimの理論を支持する結果はあるものの、一部の女性にしか当てはまらないというのが主な批判点になっています。また、Hakimは女性の選好に対する制約はないと主張しているものの、特にイギリスでは保育コストという制約が、女性の就業パターンに実質的な影響を与えていると主張されています。選好に対する制約の問題は、合理的選択理論においてもフェミニズムなどから批判されている点なので、個人的には関心のあるところです。
 本論文の批判には共感できる点も多いのですが、一方でHakimの本論文に対するリプライも重要に思われます。Hakimの反批判のポイントの一つは、「一般的な価値観と個人的な選好はしばしば一致しない」という点です。すなわち、「一般的な意見として女性は子育て中に自由に仕事に戻れるようにすべき」とある女性が考えていたとしても、自分自身はそうしたくないと思っていることがありうるというものです。そして、Hakimは一般的な価値観と個人的な選好の関連は弱いものであり、またMcRaeは前者と女性の就業パターンの関連に注目しているため、選好理論を直接的には検証していないと述べています。