梅原大吾『1日ひとつだけ、強くなる。 世界一プロ・ゲーマーの勝ち続ける64の流儀』

 

  



  Youtubeでたまたま講演の動画を観たのですが、面白かったので著書も買ってみました。ちなみに上の動画の後半部分で、後輩が質問していて意表を突かれました。

 

 本書の副題になっている「勝ち続ける」ということについて、著者は単に「勝つこと」とは明確に区別しています。一度勝つだけであれば、運や勢い、特定の技術などによって可能であるものの、長期に渡って成果を挙げるためには、そうした要素だけでは通用しないということです。

 そして著者は一回限りの勝ちではなく、長期に渡って成果を挙げることを重視しています。そのためには、「自分を飽きさせないこと」が必要だといいます。いくら好きなことを仕事にしているとは言え、20年以上もゲームをやってきているために、自分を飽きさせないということは、なかなか難しいことのようです。

 大会での優勝を目的にすると、それを達成した瞬間にモチベーションを失ってしまうために、「勝ち続けるためには勝つことを目的にしない」という、一見すると逆説的な主張が展開されています。自分を飽きさせないためには、「継続して成長を感じられること」が重要であり、そのためにはむしろ目標を下げ、一日ひとつでも発見があればよいとのことです。

 

 前に読んだ村上春樹『職業としての小説家』でも、一回小説を書くだけならば、色々な人がやっているものの、小説を書き続けている人はそれほど多くないということでした。そして、小説を書き続けるための、徹底的な自己管理やルーティンの確立が印象に残っています。やはり、長期に渡って成果を挙げられるということは、その道のプロとしての条件だと言えるのかもしれません。

Castilla and Benard (2010) "The Paradox of Meritocracy in Organizations"

Castilla, Emilio J. and Stephen Benard. 2010. "The Paradox of Meritocracy in Organizations." Administrative Science Quarterly 55: 543-76.

  組織が業績主義的(meritocratic)な文化である際に、むしろ男女の不平等を拡大するようなバイアスが生じるという、逆説的な仮説を検証している論文です。実験によるアプローチが興味深いです。

  

  • 成果主義的な賃金制度の導入や、アファーマティブ・アクション、ダイバーシティ政策にもかかわらず、職場における不平等は残り続けている。こうした状況は、組織の慣行は明文化された目的のためではなく、部分的にはシンボリックな理由により導入されると見なす新制度論の立場からすれば、おかしなことではない。
  • 未だ明らかになっていないのは、ジェンダーや人種による不平等は、管理者が業績主義を促進しようという努力にもかかわらず残り続けているのか、それともむしろそうした努力のために残り続けているのかである。
  • 業績主義的な報酬の慣行が実際に労働者の成果と生産性に結びついているのかどうかや、ステレオタイプあるいは仕事には無関係な要因による影響を減らしているのかどうかは、よくわかっていない。
  • 先行研究では、業績主義的な報酬慣行を持つ組織の中でも、人口学的な要因による不平等が残っていることが報告されている。
  • しかし、先行研究では業績主義的な報酬システムを導入した後の組織が対象となっているために、こうしたシステムの導入にもかかわらず属性による不平等が残り続けているのか、それともこうしたシステムのためなのかがわからない。
  • 業績主義を強調することが、逆説的な効果を持つという予測は、文化と認知の関連についての研究によっても示唆されるものである。認知的バイアスとステレオタイプについての近年の研究によれば、人々は自らが公平・客観的であると感じるような文脈においては、より不公平に振る舞う傾向にあるとされている。
  • 仮想的な大企業において、従業員の成果を評価させるという実験を行った。この実験では、(1)評価のシステムが業績主義的かどうかと、(2)評価の対象となる従業員が男性か女性かという、2つの要素を操作する。実験はMBAの学生に対して行った。参加者は、3つの従業員プロファイルを提示される。このうち2つが「テストプロファイル」であり、同様の成果を挙げている男性従業員1人と女性従業員1人が含まれる。もう1つは「フィルタープロファイル」であり、成果の低い男性従業員1人が含まれる。フィルタープロファイルは、この実験がジェンダーによるバイアスを検証するためのものであるという疑念を参加者に抱かせないために用意された。参加者はそれぞれの従業員に対して、ボーナスの大きさ、昇進を推薦するかどうかなどを評価する。
  • 組織が業績主義的であるかどうかを操作するために、その企業の「中核的な価値観」として、参加者が受け取る情報を変化させた。業績主義的な組織では次の情報が提示される。(1)すべての従業員は公平に報いられる。(2)従業員の昇給に値するかどうかは成果によって決まる。(3)昇給とボーナスは従業員の成果のみに基づく。(4)昇進は従業員の成果がそれに値する場合に行われる。(5)この企業の目標はすべての従業員を毎年公平に報いることである。
  • 非業績主義的な企業に割り当てられた参加者に対しては、次の情報が提示された。(1)すべての従業員は定期的に評価される。(2)従業員が昇給に値するかどうかは管理者によって決められる。(3)昇給とボーナスは管理者の裁量に基づく。(4)昇進は管理者がそれに値すると判断した時に行われる。(5)この企業の目標はすべての従業員を毎年評価することである。
  • 実験の結果、業績主義的な企業においては、同等の成果を挙げている従業員にもかかわらず、女性従業員に対するボーナス提示額は、男性従業員よりも有意に低くなった(非業績主義的な企業においては、むしろ女性従業員の方が高い)。昇進や採用などの他の従属変数についても、結果は予測される方向であったものの、ボーナスの場合ほど明確な差は見られなかった。これは、ジェンダーによるバイアスは昇進や採用などの見えやすい結果では起こりづらいという予測とも整合する。
  • ただし、最初の実験で得られた結果は、フィルタープロファイルとして使用した従業員の性別が男性であったことによって起こったのかもしれない。人々が評価を行う際に、男性の場合は別の男性と、女性の場合は別の女性と比較を行うということは、しばしば指摘されている。実験1では、フィルタープロファイルとして使用された男性従業員の成果が低かったために、テストプロファイルの男性従業員をより高く評価してしまったのかもしれない。そのため実験2ではフィルタープロファイルの従業員の性別を女性に置き換えた。しかし、実験2においても業績主義のパラドックスは確認された。
  • 非業績主義的な企業において女性従業員のボーナス額が有意に大きくなったのは、「管理者の裁量による」という文面が影響したのかもしれない。よって実験3として、非業績主義的な企業に割り当てられた参加者に対して、この裁量という文面を提示しないというように条件を変更した。結果として、非業績主義的な企業におけるボーナス額の男女差は、統計的に有意なものではなくなった。しかし、業績主義な企業における場合のように、男性の方が有意に金額が大きくなるということはなかった。やはり、業績主義のパラドックスは確認された。
  • 業績主義のパラドックスが生じるメカニズムの1つとして、人々は自らが偏見を持った人間ではないという道徳的な信任(moral credentials)が得られた際に、差別的な態度を示しやすくなるということが挙げられる。
  • この知見を一般化する前に、いくつかの条件を考慮しておく必要がある。第一に、人々が事前に持つバイアスの大きさである。評価する人間がもともとジェンダーによるバイアスを持っていなければ、業績主義のパラドックスは生じないであろう。ただし、人々は意識的・無意識的なバイアスの両者に影響されることに注意が必要である。意識的にはステレオタイプを否定する人々でも、無意識のバイアスが評価に影響する場合がある。
  • 第二に、組織の成員に対してどのように業績主義の手続きと価値が与えられるかである。この実験では、参加者は企業の中核的な価値を提示され、それに同意するかどうかを単に答えただけであった。Uhlmann and Cohen(2007)による研究では、応責性(accountability)が大きい場合に、自らが客観的であると思い込むことによる採用時のバイアスは小さくなることが明らかにされている。
  • この研究では、文化的な文脈と個人の認知・行動の関連について新たに貢献した。組織の文化的な価値として業績主義を強調することは、属性的なバイアスを解き放つ「環境的な引き金」(DiMaggio 1997)として働くのである。

Emmenegger (2009) "Specificity versus Replaceability: The Relationship between Skills and Preferences for Job Security Regulations"

Emmenegger, Patrick. 2009. "Specificity versus Replaceability: The Relationship between Skills and Preferences for Job Security Regulations." Socio-Economic Review 7: 407-30.

  技能と社会政策への選好の関係について、対立する2つの仮説を検証している論文です。 

 

1. イントロダクション

  • Iversen and Soskice(2001)をはじめとした資本主義の多様性(VoC)の研究では、個人が持つ社会保護に対する選好は、その個人が持つ技能の移転可能性(portability)の関数であると主張される。特殊的技能は一つの企業または産業においてのみ役立つものであるため、それへの投資はリスクの伴う戦略である。よって特殊的な技能へ投資した労働者は、こうしたリスクを緩和する社会保護を求めるとされる。特に、失業保険などの制度において、もっともこうした関連は強いと予想される。
  • VoCの研究とは異なる見方をとるのは、Goldthorpe(2000)によって社会階級の存在を説明するために発展させられた、労働者の代替可能性(replaceability)についての議論である。代替が容易な労働者ほど雇用保護規制を求めると、Goldthorpeは主張する。代替可能性は、仕事を行う上での人的資産(human assets)の特定性、および仕事の監視の困難さの関数である。もっとも代替が容易であるのは、特殊的技能が必要でない仕事を行い、また監視を行いやすい労働者である。

 

2. 相対的な技能の特定性という命題

  • 概して、雇用保護規制は、雇用創出に対する障害だと見なされてきた。しかし、VoCのアプローチでは、雇用保護規制が国家の生産レジームにおいてプラスの貢献を行うことを強調する。長期雇用関係が企業の生産戦略を変化させることが主張される。外的な柔軟性は損なわれるものの、訓練・再訓練を行うことで、企業は内的な柔軟性を増加させるのである。
  • 労働者から見れば雇用保護規制とは、技能へ投資もたらすリターンに対して、保険をかける手段となる。雇用保護規制は、特殊的技能を持った労働者が失業してしまうリスクを緩和するものとなる。
  • 雇用保護規制は、労働者が特殊的技能へ投資を行うことへのインセンティヴをもたらす。労働者はいったん特殊的技能へ投資すると、より強固な雇用保護規制に関心を持つようになる。そのため、相対的な技能の特定性についての命題は、なぜ特定の雇用主と労働者は大きな福祉国家に関心を持つかだけではなく、特殊的技能へ投資した労働者が、こうした投資を保護する政策を好むことを説明しようとする。これに対して、Goldthorpeは、なぜ特殊的技能へ投資する労働者とそうでない労働者がいるのかの説明を行っていない。よって、Goldthorpeの代替可能性についての命題は、野心的なものではない。この結果として2つのアプローチは、すでに特殊的技能への投資を行った(あるいは行っていない)労働者における、雇用保護規制への選好という面においてのみ比較可能である。
  • 相対的な技能の特定性命題は、非常に強い合理性の仮定を置いていることに注意が必要である。そこでは労働者が職業生活の初期において、雇用制度が持つ失業への効果を測定できることを念頭に置いている。しかし、実証研究の結果からこれには疑問が提示されている。これに対してGoldthorpeが述べるところの、いったん特殊的技能へ投資した労働者が、その経済的地位を保護する制度に関心を持つということは、合理性の仮定は弱くなる。
  • 保険としての雇用保護規制を求めるという議論には、いくつかの疑問が残る。特に、特殊的技能と一般的技能という区別は、熟練労働者と非熟練労働者の区別を曖昧にしてしまう。この議論では、非熟練労働者はコストの伴う投資を行っていないため、投資に対するリターンを確保するような雇用保護規制に関心を持たないとする。しかし、これらの労働者は、技能の欠如による失業という別のリスクに直面している。

 

 

3. 代替可能性という命題

  • この命題は、Goldthorpeによって、社会階級の存在を説明するために展開された。階級とは、生産のプロセスにおけるインプットと結果に対して、個人が及ぼせる権力と権利のことを指す。これらの権力と権利が不平等に分布している際に、階級関係は存在する。
  • 「権力」と「権利」は、操作化が困難な非常に抽象的な概念であるため、Goldthorpeとその同僚たちは、職業に目を向けた。階級分類を作成するにあたり、収入、雇用条件、経済的な安定性、経済的な向上可能性の面において、比較可能なように職業カテゴリーがまとめられている。
  • Goldthorpeの階級分類は、そもそも社会階級がなぜ存在するかという疑問に対して答えをもたらしていない。Goldthorpeは近年の論文においてこの問いに挑み、雇用関係によって階級的な位置は定義されると主張している。その結果として、雇用主、自営労働者、被雇用労働者という区別を行っている。
  • 雇用された労働者をさらに区別するために、Eriksonとの共同研究(1992)において用いた、労働契約とサービス関係という区別を用いる。労働契約は、マニュアル労働者と、下級のノンマニュアル労働者において働く。これに対してサービス関係は、専門職・管理職の仕事を組織するものである。EriksonとGoldthorpeにおいて決定的な区別は、労働者の監視の困難性である。サービス関係においては、雇用主と労働者の間に情報の非対称性があり、監視にはコストが伴う。その結果として、雇用主は労働者の職場に対するコミットメントを増加させるような契約を結ぶことに、利害が生まれる。
  • 近年の研究において、Goldthorpeは監視の困難性にくわえて、人的資本の特定性を2つ目の次元として導入している。取引費用の経済学に立脚して、雇用主は特殊な知識をもった労働者を保持することに強い利害を持つと述べるのである。Iversen and Soskiceも、Goldthorpeも取引費用の経済学における概念を用いているにもかかわらず、重要な違いが存在する。Iversen and Soskiceは特殊的技能を一般的技能と対比させているのに対して、Goldthorpeは特殊的技能を技能の欠如(no skills)と対比させているのである。Iversen and Soskiceは技能の総量における相対的な技能の特定性を問題にしているのに対して、Goldthorpeは絶対的な技能の特定性を問題にしている。

 

4. データ、変数の操作化、統計的な手続き

  • 1996年と1997年のISSPの調査をデータとして用いる。1996年のISSPにおける、「政府が衰退する産業の保護をすること」への賛否と、1997年のISSPにおける、「雇用の安定性は仕事の特性としてどれだけ重要だと思うか」の2つを従属変数に用いる。
  • 相対的な技能の特定性と、社会階級を測定する変数は、同時に入れることができない。なぜならば、この2つの変数はどちらも、ISCO-88から作成されるものであるためである。
  • ここではGoldthorpeの階級分類のみを用いる。Iversen and Soskiceの相対的な技能の特性について指標には、疑問が出されているためである。
  • Iversen and Soskiceからは、下級ホワイトカラー労働者は雇用保護規制に対して敵対的であると予想されるのに対して、Goldthorpeからは逆に、下級ホワイトカラー労働者は絶対的な技能の特定性の低さによって雇用保護規制に好意的であると予想される。

 

5. 経験的証拠

  • 結果は、技能の代替可能性についての主張を支持するものである。第一に、サービス関係における労働者は、雇用保護規制に対して批判的である。同じサービス関係でも、上級サラリー階級は下級サラリー階級よりも、雇用保護規制にさらに敵対的である。
  • 1997年のISSPデータを用いた分析では、下級ホワイトカラー労働者は、どのグループよりも雇用保護規制に賛意を示している。
  • しかしながら、問題も残っている。1997年のISSPデータを用いた分析において、上級ブルーカラー労働者は雇用保護規制に対してきわめて高い賛意を示している。上級ブルーカラー労働者は、非常に特殊的な技能を要求する仕事を行っているものの、監視の困難さの度合いは小さい。これに対して、上級ホワイトカラー労働者は、特殊的な技能は小さいものの、仕事の監視は困難である。上級ホワイトカラー労働者よりも上級ブルーカラー労働者がより雇用保護規制を支持していることは、技能の特定性よりも監視の困難さが選好を決定する上で重要な要因であると解釈できるのかもしれない。あるいは、この結果は西洋民主主義国家における脱産業化の影響を表しているのかもしれない。非熟練・半熟練の製造業の仕事が失われてきており、このプロセスは上級ホワイトカラー労働者よりも上級ブルーカラー労働者により影響している。

 

6. 結論

  • 相対的な技能の特定性に関する命題がなぜ支持されなかったについては、2つの説明が可能である。第一に、相対的な技能の特定の命題は、非常に強い合理性の仮定を置いている。しかし、実証研究で示されているように、多くの人々は雇用保護規制が失業に対して保つ効果に気づいていないのである。
  • 第二に、Iversen and Soskiceの議論は、特殊的技能も一般的技能も持たない労働者に拡張することができない。しかし、Goldthorpeの代替可能性命題からは、低技能の労働者がとりわけ雇用保護規制に強い賛意を示すことが期待できる。特殊的な技能は失業して冗長なものになったとしても、将来の雇用主に対して自分は熟練労働者であるというシグナルになるのである。

 

吉見俊哉『「文系学部廃止」の衝撃』

 

「文系学部廃止」の衝撃 (集英社新書)

「文系学部廃止」の衝撃 (集英社新書)

 

 

 細かい事実の解釈は怪しいと感じるところもあるのですが(別の本を読んだ時にも思ったのですが、グローバリゼーションや新自由主義をややマジックワード的にお使いになられるという印象)、通史や全体的な見取り図を描くことについては、吉見先生はとてもうまい方でいらっしゃると思います。
 1章では、2015年6月の文科省通知を、「文系学部廃止」と突如として過激に報道したメディアの姿勢を疑問視し、戦後日本の国立大学における理系偏重や、国立大学法人化以降の運営費交付金の減少などといった、一連の大学改革の流れの中で捉えられなければならない問題であることが指摘されます。
 2章では、「文系は役に立たない」と言われることに関して、マックス・ヴェーバーを引き、「役に立つ」 とは手段的合理性と価値合理性の両方の次元から成り立つものであり、文系の知は主に後者に位置づくものであるとされます。これによって、 「文系は役に立たない」という主張にくわえ、「文系は役に立たないけれども、必要である」という主張も批判の対象とし、「長期的に見た際に文系は役に立つ」という立ち位置が示されています。

 

 第4章で書かれている、先生自身の研究を学生に徹底的に批判させるというスタイルの授業は、私も体験したことがありました。すでにできあがっている研究を題材にするので、準備の手間がかからず楽だからそういうスタイルを採用されているのかと、当時は失礼ながら思っていました。しかし本書によると、大学設置基準が大綱化されて以降、大学院生が増加・多様化し、最新の英語文献を輪読するというスタイルの授業が成り立たなくなったためとされており、なるほどと思いました。
 現状の「入口管理」から、「出口管理」へと移行すべきというのは、たしかにその通りだと思うのですが、新卒一括採用の雇用システムとも結びついているので、大学のみの取り組みで実現するのは難しい問題です。ちなみに、大学授業料を無償化することから始めようというのが、矢野眞和先生のご提案ですね。

 

8 Mile



  先日に面接を1件受けてきたのですが、その準備をしている最中に、本映画の主題化である、Lose Yourselfをよく聴いていました。ちなみにその面接では、某S先生が面接官としていらっしゃり、事前に食べたお昼ご飯を全部吐くかと思いました(mom's spaghettiではありませんでしたが)。

 本作は2002年に公開された、Eminemの半自伝的映画です。デトロイトの貧困地域が舞台になっており、母・妹とトレーラーハウスに住む主人公が、いつかこの生活から抜け出すことを夢見つつ、黒人支配のラップバトルの世界に挑んでゆくというような話です。 

 タイトルの"8 Mile"とは、デトロイトを走る高速道路で、白人・黒人の居住地域を分ける大きな境界になっているようです。アメリカ社会の貧困や人種間の分断を描く上で、デトロイトというのはやはりシンボリックな意味を持ちやすいのでしょうか。クリント・イーストウッド監督の『グラン・トリノ』も、デトロイト近郊が舞台でしたね。

日本経済新聞社編『世界を変えた経済学の名著』

 

世界を変えた経済学の名著 (日経ビジネス人文庫)

世界を変えた経済学の名著 (日経ビジネス人文庫)

 

 

 半分は教養のために、半分は授業の参考になるかと思って読みました。第1部「文明論の視点」、第2部「思想の広がり」、第3部「経済理論の発展」、第4部「経営学の深化」と分かれており、その分野の専門家の先生方が1章ずつで、計18冊が採り上げられています。

 第1部がやや異色で、1章は福沢諭吉の『文明論之概略』です。文庫になる前は、『経済学 名著と現代』というタイトルだったそうなのですが、文庫版で『世界を変えた~』となったことで、余計に福沢諭吉から始まるのが奇妙な感じはします。2章のブローデル『地中海』も、おそらく類書ではあまり扱われていないのではないでしょうか。

 他の章を見ると、アダム・スミス、ケインズあたりは王道ですが、トクヴィル、ウェーバー、ヒューム、ブキャナン&タロック、サイモンなどが扱われているのを見ると、他の社会科学にも大きな影響を与えた研究を重視して選んでいるような気もします。

宇野重規『保守主義とは何か――反フランス革命から現代日本まで』

 

保守主義とは何か - 反フランス革命から現代日本まで (中公新書)

保守主義とは何か - 反フランス革命から現代日本まで (中公新書)

 

 

 冒頭で、「保守」あるいは「保守主義」が一種のバズワードになっており、曖昧な思想になっていることが指摘されます。その大きな原因として挙げられているのが、「進歩」という理念の衰退です。すなわち、保守主義とは進歩主義との対立や緊張関係の中で展開してきたものであり、進歩という理想に対する懐疑が拡がった現代では、結果として保守主義も迷走してしまっていると論じられます。

 その思想を整理してゆく上で、まず参照点としてエドマンド・バークが採り上げられます。彼の保守主義思想を、(1)保守すべきは具体的な制度や慣習であり、(2)そのような制度や慣習は歴史のなかで培われたものであることを忘れてはならず、さらに、(3)大切なのは自由を維持することであり、(4)民主化を前提にしつつ、秩序ある漸進的改革が目指される、と要約します。歴史の中で培われた制度や慣習を重視するという立場から、たとえば王権の連続性が担保されてきたイギリスと、革命による断絶を経験したフランスとでは、保守するものが異なるというわけです。人々の自由を重視する立場であったバークが、フランス革命による急進的な変化に対しては批判的であった点が強調されます。

 続いて、それぞれの時代と社会における進歩主義的な理念に対して、保守主義がどのように向き合ってきたのかという問題設定の下で、「社会主義との闘い」、「『大きな政府』との闘い」、「日本における保守主義」が論じられてゆきます。類書と比較した際の特徴として、「保守主義者」とは自認していない人々も、保守主義思想の系譜に位置づけられているようです。たとえば、市場メカニズムの称賛者としてもっぱら見られることが多いハイエクについて、ハイエクは自らを保守主義者ではないと自認していたにもかかわらず、その重要な思想として人間の計算能力の限界と自由の擁護があったことを指摘し、保守主義的な側面が描き出されています。それから日本の箇所では伊藤博文を挙げて、最新の研究に基づいた議論が展開されています。

 また、保守主義における特徴として、理性だけではなく感情や共感の重視という点を挙げ、宗教の役割についても論じられています。特に、アメリカにおける政治や世論を捉える上で、宗教の理解は不可欠であるとされます。宇野先生が近年、宗教に関心を寄せられているということも、この保守主義の問題と関連しているということが、本書を読んで感じとれました。

 本書を読んで、たとえば現代社会における生命倫理の問題を考える上では、「歴史の中で培われた制度や慣習」、「秩序ある漸進的改革」というバークに基づく保守主義的な理念は重要になるのではないかと思いました。この点に関連するかもしれないこととして、本書でハーバーマスに若干触れられている箇所も興味深かったです。