山岸(1992)「マイクロ・マクロ社会心理学の一つの方向」
- 授業のネタ探しのために、Mertonの理論について調べていたところ、この論文にあたりました。
- マイクロ―マクロのつながりを考慮する必要があるのは、社会現象における個人レベルでの意識や行動を超えた創発特性(emergent property)が生まれるプロセスの重要性を認識する場合であるとし、この論文が書かれた当時の社会心理学では、そうした創発特性に関心を払わない立場が主流であるとしています。
- 実際のところ本論文は社会心理学のジャーナルに掲載された論文ですが、Durkheim、Blau、Merton、Collins、Boudon、Colemanなどが引用されており、異色ですあるがゆえに社会学的には非常に興味深いです。
- 創発特性が生まれる重要なプロセスの一つとして、「行為の相互依存性による意図せざる結果」に議論が絞られています。
- Hardinの「共有地の悲劇」に関する議論を挙げ、「意図せざる結果」は必ずしも「予期されざる結果」を意味しないという指摘はなるほどと思いました。ゲーム理論における様々なタイプのナッシュ均衡に関しても言えるのかもしれません。
- 合理的選択理論は、個々人の行動の説明については限界の大きい理論であるものの、マイクロ・マクロ過程分析のためには、非常に有効であるという評価がなされており、これはこの前読んだ論文でも同じようなことが書かれていました。
- 本論文は理論的な議論が多く、学部生向けの授業の課題文献には使えなさそうですが、山岸先生が高校生向けに書いた新書の中でたしか出てきたいじめの話などは、本論文で言うところのマイクロ・マクロ過程分析のわかりやすい事例として、使えるかもと思いました。
Swift(2003)「機会を捉える――社会的非移動に対する選好とアスピレーションの影響」
Swift, Adam. 2003. "Seizing the Opportunity: The Influence of Preferences and Aspirations on Social Immobility." New Economy 10(4): 208-12.
- 同じ著者の論文を、前にも1本まとめました。神島先生の政治哲学の本でも、本論文の著者の議論が紹介されていました。
- 実証研究に従事していると、規範的な問いは直接的に議論しないし、前提に無自覚であることも多いので、こういう論文を読むのは楽しいです(すぐに何かに役立つというわけではないのですが)。
- メリトクラシーを議論する上で、仕事と、それにともなう報酬を区別するというのは、なるほどと思いました。移動研究でよく議論されるOED連関でいうと、Dの中身を区別するということになりますね。
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政治哲学者は、道徳的な望ましさと政治的な実現可能性を注意深く区別すべきである;政治家は自らの選挙環境を一定程度は所与のものとして受け入れてその中で最善をつくす必要があるものの、そうした環境は変化するし、政治家がその変化に影響を与えることもできる
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ある社会がメリトクラティックであるかどうかの問い方の1つは、仕事とそれに従事する人々が適合しているかである;人々は縁故や階級的背景ではなく、能力に基づいて仕事を得ているか(これは教育制度に関して問うことも可能であり、つまりトップの大学はメリットに基づいて選抜を行っているかという問いにもなりうる)
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こうした2つの解釈を混ぜ合わせることは一般的である;すなわち、メリトクラティックな社会とは、効率的であるとともに公正であるとされる
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これは政治的に便利で魅力的なパッケージである
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しかしどのような意味において、より能力のある人々はより報酬を受け取るに値するのだろうか
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2人の子どもがいる親を想像してみよう;片方の子どもは並外れて才能があり、もう片方の子どもは学習に困難を抱えている;この2人の子どもが生涯にわたって劇的に異なる資源を分配されるときに、社会はこれを公正とみなすべきなのか
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私は、誰がどのような仕事を得るべきかという意味でのメリトクラシーには賛同するし、社会的背景にかかわらず能力を発達させることの重要性にも賛同する―というのも、これはより生産的なことであり、能力の高い人々によって行われることで、その生産物から誰もが利益を得るからである
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しかし、そのことは能力に応じて生産物を分配されるべきということにはならない;公正な社会、生産物をかなり異なった形で分配するだろう
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メリトクラティックな機会の平等は、効率的な生産手段としてはきわめて価値があるものの、分配の指針とはならない
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社会的公正は、親の社会的地位とその子どもの社会的地位が無関連であることを要求するという考えは魅力的であるかもしれない;これは社会学者が「完全移動」と呼ぶものである
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機会の平等の支持者は、相続税を増加させることや、私立学校の廃止、あるいは異なった社会的背景を持つ子どもの混ざった学校をつくるためにバスを走らせることには、根本的な道徳的問題を感じないだろう
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しかし、裕福な親の子どもが裕福となるのには、別の理由もあると考えられる:文化、性格、アスピレーションの伝達である
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私立学校を喜んで廃止しようとする人々は、子どもが寝る前の本の読み聞かせを制限することには、それほど熱心にはならないだろう;それは仮に、私立学校に通うよりも本の読み聞かせが子どもに対してより強い影響を与えるとしてもである
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家族間の正当な相互作用は、不平等な結果を生み出す傾向にある;しかし、食卓での会話を通じて子どもの成長を促すことの自由を否定するような社会は、仮にそれがより機会の平等をもたらすとしても、公正な社会とは言えないだろう
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大部分の人々は、さらなる子どもの利益のために親が行動することは、他の子どもにくらべた比較優位を追求することであるとしても、正当であると考えるだろう;もしこれが正しいのならば、そうした行為は尊重するように義務づけられるだろうし、比較優位を伝達することを促進するような制度も許容しなければならないだろう
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これは私が共有する見方ではないものの、「家族の価値観」に対する非常に異なった理解は、依然として世代を通じた有利さの伝達を許容することになる
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移動研究は出自が異なった人々の「機会」の分配について議論するものの、通常は「結果」に関する情報しか得られない;しかし、統計的確率という意味での可能性(chance)は、機会(opportunity)という意味での可能性とは異なる;社会的公正の観点から重要となるのは、機会としての可能性であり、そこでは機会セットが重要となる
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社会的非移動を起こすメカニズムとして、選択と選好の役割は過小評価されている;選好がどこから来るのかや、選好が信念と資源と結びついてどのように選択を生み出すのかを、より理解する必要がある
「ゆきラーメン 山手」(数ヶ月ぶり???回目)
- 本郷の山手が閉店すると聞いたので、行ってきました。
- お店の移り変わりが激しい本郷通りですが、ラーメン屋は安定しているイメージがありました。なので驚きであるとともに、一時期は頻繁に通った身としては残念です。
- そういえば、鰹醤油ラーメンはなくなったのでした。ということで、焦がしねぎラーメンをチョイス。味玉・麺かため・脂少なめにて。
- 久々でしたが、変わらず安定感のあるスープでした。2月まで閉店を延期するということなので、もう1回は行きたいところです。
Matthews(2000)「コウノトリが赤ん坊を連れてくる(p=0.008)」
Matthews, Robert. 2000. "Storks Deliver Babies (p = 0.008)." Teaching Statistics 22(2): 36-8.
- 授業のネタ用に読みました。GoertzとMahoneyの本でも指摘されていましたが、明らかに何かがおかしいのにすぐには交絡要因が思いつかないというのが、この例のポイントなわけですね。
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統計学の入門書は、相関と因果の混同について決まって注意を促すが、その時に引用される例(子どもの靴のサイズと読解力など)は、現実のデータに基づいていないことが多く、また交絡要因が明らかなことも多い
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コウノトリが赤ん坊を連れてくるという伝承に関して、実際に検証した
- 1980年~90年のヨーロッパ17ヶ国のデータを使用する
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帰無仮説が正しいとすれば、これだけ極端な結果が得られるのは、125回に1回という割合である
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もちろん、観察された相関の妥当な説明は交絡要因によるものであり、たとえば土地の広さがその1つになるだろう
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このばかばかしさは、相関/因果の誤謬に関する教育的価値のみならず、p値の厳密な意味や、帰無仮説の棄却が実質的な仮説の正確さとはならないことに、注意を促してくれる
Abbott(1998)「因果の継承」
Abbott, Andrew. 1998. "The Causal Devolution." Sociological Methods and Research 27(2): 148-81.
- 前に研究会で読みました。Abbottは難しいことを難しく論じる特徴があり一読ではあまり理解ができません。
- Durkheimにおける因果は決定論的・機械的な力であった
- Durkheimにおける因果の種類は、19世紀医学における「誘発因子」(predisposing cause)に主にあてはまる;誘発因子とは特定の病気を人々が罹患しやすくするもの(特定の気候など)
- ただし、遺伝を自殺の要因として否定している箇所では、遺伝を誘発因子として退けており、後に導入される社会的要因は増悪因子(precipitating cause)とみなされている
- 後にDurkheimは、分散分析(ANOVA)モデルの因果と呼べるアプローチを採用している;これは社会的な力が潜在的なパラメータを直接決定しており、その周りに個人は局所的な因果に呼応してばらついているというモデルである
- 誘発因子/増悪因子モデルとは異なり、Durkheimは社会的要因を決定論的な必要条件としてみなそうとしていた
- 19世紀の医師たちは高次の水準(誘発因子)は変えることができず、それゆえ単に学術的関心以上のものではないと考えていたのに対して、Durkheimの関心はまさにこの高次の水準の要因(つまり社会的要因)にあり、むしろ直接的な原因は興味の対象ではなかった
- 社会科学に統計学を導入した3つの潮流では、因果に対して複雑な態度がとられていた;生物統計学者と計量経済学者は、不変の関連・相関という意味で因果を議論し、心理統計学者は因果にまったく関心を払っていなかった
- これに対して社会学では、因果を議論しようとしたのは古いスタイルの定性的研究者であった;MacIverは、数量化によって因果が相関の中に霞んでしまうことを批判した
- 「存在するのは相関のみである」という極端な実証主義者を批判するときにMacIverが念頭に置いていた因果の概念は、むしろ説明の概念に近い;MacIverにとって因果の評価とは、「なぜ、あるものやある規則性が生じるのか」に対する答えを探すことであった
- 戦後、因果の概念は定量的社会学で用いられるようになっていった
- Lazarsfeldは因果の探求をその方法的プロセスの中心に置いたものの、懐疑を持っていた;分析者は因果の評価よりも「説明」、すなわち「一般的な規則性の発見」を求めるべきとされていた
- パス解析を社会学に導入したのはBlalockとDuncanであり、Blalockは定量的分析と因果が本質的に結びついていると考えていた;これに対して、Duncanはパス解析を使用するにあたって明示的に因果の概念を喚起することはなかった
- DuncanよりもBlalockによる因果のイメージが支配的となり、因果とは現実の性質というよりも、数理的・統計的な性質とみなされるようになった
- Blalock/Duncanの時代に因果分析がこのような形で広がった理由としては、社会学者の「科学」に対する信奉があったと考えられる
- 因果主義者たちは個々の戦いには勝利したものの、戦争には敗北した;この戦争とは社会生活に関する説得的かつ面白い説明を行うという意味での戦争である
- Durkheimや多くの社会科学者・自然科学者は、西洋哲学における因果の伝統をまったく無視してしまっている
- 哲学の研究から示唆されるのは、社会学的説明は、解釈的説明(意図的、目的論的説明)と因果的説明(決定要因による説明、法則論的説明)を統合することが可能かどうかということである
- 解釈学的哲学における説明では、規則的な関係のみならず、そこからの偏差も同様に重要なものとみなされる
- 解釈学的哲学と歴史哲学は、分散分析的な因果観とは異なり、行為を中心に置く
- 社会学が公共的な影響力を失ってしまっている理由として、因果にのみ焦点をあてて記述を軽視してきたことがある;社会学者は純粋な記述に徹する論文を拒むのである
- 記述の手段としてみたときに、回帰分析はデータの次元を縮減してしまうため、きわめて劣っている
- 生物学における種の分類研究の発展に見られるように、真の科学とは因果よりもむしろ記述であり、社会学は記述に対して真摯に向き合わない限り、社会生活の一般科学として受け入れられることはないだろう
- Goffmanの研究に見られるように、社会的プロセスの相互作用を分析する定量的方法が必要であり、そのためには、シミュレーションが必要であろう
- 「パラメータの意味」は人々の戦略的な行為によって変わりうるものであり、この意味においてシミュレーションはありうる最善の方法と思われる
Checchi and van de Werfhorst(2018)「政策、スキル、所得――教育の不平等はどのように所得の不平等に影響するのか」
Checchi, Daniele and Herman G. van de Werfhorst. 2018. "Policies, Skills and Earnings: How Educational Inequality Affects Earnings Inequality." Socio-Economic Review 16(1): 137-60.
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教育の格差(テスト得点と最終学歴)が所得格差に与える影響を分析する
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新古典派経済理論はスキルの不平等(テスト得点で測られる)と所得不平等の正の関連を予測し、学歴はそれ以上につけくわえるものはないと想定される;社会的閉鎖理論はスキルの不平等よりも学歴の不平等がより所得の不平等を予測すると主張する
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新古典派モデルでは能力に基づいたふるい分けが完全であると想定されるのに対して、社会的閉鎖理論ではインフォーマルな規範あるいはフォーマルな規制が人々の階層秩序を形成することを議論する
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両者を区別する上では、スキルと学歴を異なる指標で捉えることが必要である
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教育政策の地理的・時間的分散を操作変数として使用する
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第1のデータとして、学力得点にはInternational Mathematics Studyの情報を使用し、これに含まれる3つのコーホート(1950,1966,1981年生まれ)の学歴と所得の情報をEuropean Community Household PanelとEuropean Union Statistics on Income and Living Conditionsから得る
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どちらのデータセットにおいても、学力得点の不平等は学歴を統制した後にも所得の不平等に影響している;さらに学力得点の効果は学歴の効果よりも大きい
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教育政策の国家間・時点間の分散を操作変数として用いた分析では、教育改革が学力得点と最終学歴の不平等に影響することが示された
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分析結果は、閉鎖理論よりも人的資本的/機能主義的説明とより整合する;ただし、学歴は独立した効果を所得に及ぼしているという閉鎖理論と整合する結果も得られた
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明示的には分析しなかったものの重要となりうるのは、グループ内の不平等である;もし学歴グループ内の不平等が測定されたスキルと強く重なりあうならば、スキルのより大きな効果が見られたかを説明できる(これは新古典派/機能主義モデルとは依然として整合する)
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既存研究と同様に、教育のアウトカムの格差は所得格差と関連することが示された;所得格差を懸念する政策立案者は、教育の分布を政策アジェンダに組み込むべきことが示唆される
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分析の限界として、パネルデータではないために、現在の所得の格差が拡大していくのか縮小していくのかが不明である;しかし、能力の衰えは学歴によって異なることが既存研究で指摘されていることを踏まえると、所得の不平等は時間が経つとともに拡大するかもしれない
Hudik(2019)「合理的選択理論の2つの解釈と行動経済学的批判との関連性」
Hudik, Marek. 2019. "Two Interpretations of the Rational Choice Theory and the Relevance of Behavioral Critique." Rationality and Society 31(4): 464-89
- 著者は経済学の先生ですが、社会学における合理的選択理論の位置を考える上でも、非常に勉強になりました。集合レベルの現象を説明することが目的なので、下位レベルの行為の記述は正確なものではなくともよく、目的に叶う範囲で単純化されたものでよいというのは、Arthur Stinchcombeがメカニズムに関する論文で指摘していた点とも関連すると思いました。
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合理的選択理論の2つの解釈を比較する:(1)意思決定理論的解釈(decision-theoretic interpretation: DTI)と、価格理論的解釈(price-theoretic interpretation: PTI)
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前者は効用最大化の仮定が意思決定手続きを文字通り表していると受け取り、後者は集合レベル行為の変化・分散を説明する上でのモデリング装置とみなす
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合理的選択理論に対する近年の批判として行動経済学によるものがあり、合理的選択理論は非現実的な仮定に根ざしており、そこからの予測は実証的に反駁されると主張されている
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PTIの下では、合理的選択理論は「合理性」とも「選択」ともほとんど関係がない;むしろ、集合レベルの行為に関する変化やグループ間の差異の説明に重きが置かれる
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こうした変化や差異のすべては、グループの内在的な特性ではなく制約の影響として説明される;つまり、PTIの核心は人々が根本的に同質的だというものである
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PTIはもっぱら伝統的にシカゴ学派の経済学者、特にGary Beckerに結び付けられている
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これに対してDTIは、合理的選択は人々の実際の意思決定ルールであるとみなす;
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DTIはPTIの特性の一部と組み合わされ、とりわけPTIの行動的基礎として理解されることもある
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Weyl(2019)は価格理論を「配分の問題に対する解決法として、豊富でかつしばしば不完全に特定されたモデルを『価格』に縮約する分析」と定義し、かつこれを個人の意思決定に焦点をあてる還元主義(reductionism)と実証主義(empiricism)のアプローチと比較している
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価格理論と還元主義の区別は、FriedmanによるWalras的な経済理論とMarshall的な経済理論の区別と密接に関連する;Walras的経済理論は説明や予測よりも事実の記述を重視し、還元主義の特徴に関連する;Marshall的概念は説明と予測を強調し、価格理論と対応する
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価格理論の関心は集合レベルの現象であるので、PTIにおける合理的個人は実際の行為をモデル化したものではなく、単なる方法論的装置である;こうした観点からは、PTIは合理的選択理論の理念型としての解釈と関連する
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DTIの観点からは、合理的選択とは一連の代替選択肢を所与とした際において、もっとも選好に一致する特定の選択を行うという手続きを指す
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PTIは個人の選択ではなく、集合的現象に焦点をあてる;この理由は個人の行為は個別のショックによる影響を受けるものの、集合レベルでは消失するとみなせるからである
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PTIでは行為の集合的な変化や差異は究極的には、「嗜好」(tastes)の違いではなく価格と所得の変化や差異の観点から説明される
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PTIとDTIの違いとしては、PTIではある選択肢それ自体を説明しようとするわけではなく、異なる選択肢間の差異を説明することが目的である
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また別の違いとしては、PTIではある個人の選択をモデル化するわけではなく、人工的に構築された個人の集合をモデル化している
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PTIにおいて特定の行為それ自体の説明が目指されていないのは、個人の選好に関する詳細な情報がなく、それゆえ予算制約線上のどの点が選択されるかは予測できないためである
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PTIによる方法論的装置は、様々な特徴(嗜好、選択手続きなど)と制約の点で異なる多くの個人の行為を単一の最適化モデルによってどのように集合的に表すかという問題に取り組む
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これに対して還元主義的方法では、それぞれの個人の特徴と、集団におけるそれらの分布を考慮する;もっとも単純な還元主義モデルでは、すべての個人は同質的であり、DTIの意味で合理的であると仮定する
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PTIにおける中心的な仮定は、非飽和性(non-satiation)である:人々(少なくともいくらかの人々)はより多くの財を望む
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この仮定により、集合的に表される個人は常に制約線上の点を選択し、どの点を選ぶかは実際の観察によって決定される
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通常は人々の選好は凸状であると仮定される
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場合によっては、選好をまったくモデル化する必要もない;Becker(1971)は代替効果と所得効果について、効用関数を導入する前に議論している
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こうしたことを考慮すると、PTIを表す上で無差別曲線を用いるのはいくらか誤解を招くものである;むしろ、PTIのアプローチでは需要・供給の図を用いるのがより容易く、選択自体ではなく変化やばらつきに焦点をあてるという目的にかなっている
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還元主義的アプローチに対して、価格理論的アプローチでは集合需要曲線から直接議論をはじめる;価格理論的アプローチにおける需要分析はすべての財の価格ではなく、ある特定の問題に関連する価格のみが考慮される
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価格理論的アプローチは、現実の複雑性を縮減しつつ本質的な特徴を保とうとするものであり、PTIにおける合理性とは仮説ではなくモデリング装置なのである
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還元主義的アプローチでは、説明と予測のみならず記述的な正確さが目指される;さらに個人レベルと集合レベルの両方の分析が試みられる
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これに対して、価格理論的アプローチはより実用主義的であり、記述よりも説明、つまりはhowに関する問いよりむしろwhyに関する問いに焦点がある;十分に正確な答えを得るため過不足のない変数から議論するのである
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しかし、DTIもPTIも無限の自己利益は仮定していない;合理性はいかなる選好とも両立可能なのである;実際のところ、Becker(1998)は様々な動機を効用関数の中に取り入れている
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批判を行う人々が合理的選択理論と無限定の自己利益を結びつけるのは、行為を説明する上で選好の中身について何らかの仮定を置かない限り理論として同語反復であると考えているからかもしれない;しかし、これは選好の中身を所与とするPTIにはあてはまらないのである
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Becker(1998)は特定の状況における様々な認知的制約の重要性を認めているものの、他の制約のほうが集合レベルの行為の説明にはより重要であると考えたのである
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おそらくもっとも重要なのは、PTIは何が「正しい」選択かを定義しないため、選択における誤りを扱うことができないという点である
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ある状況において人々が体系的に選択の誤りを犯すことはありうる;重要となるのは、こうした誤りが異なる集団間における集合レベルの行為の差異につながるかどうかである;もしそうした差異がみられるならば、PTIは制約の差異によって説明しようとするであろう
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合理的選択理論への批判者が念頭に置いているのは、もっぱらDTIなのである;こうした人々は、合理的選択理論は人々が実際に行う選択をそのまま記述したものと考えている
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PTIの観点からは、無限定の合理性、無限定の意志力、無限定の自己利益という批判は的外れであるものの、行動経済学からの妥当な疑問も存在する
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行動経済学はまた、脳生理学から導出された「正しい」カテゴリーを見つけ出し、経済学の「恣意的な」カテゴリーを置き換えることを目指している;上述したように、価格理論的アプローチにおいては、カテゴリーの有用性はある問題に対して評価される
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たとえば、人々はインセンティヴに反応するという考え方はPTIの下における合理的選択アプローチの顕著な特徴である;しかし、この理論はインセンティヴの具体的な形態については言及しない
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合理的選択モデルはある条件の下で、成果報酬は成果の向上につながると予測する;しかし、この成果の向上とは特有の形態を取りうる
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Fryer et al.(2012)は教師の成果について分析し、教師にボーナスを事前に支払い、もし生徒の成績が向上しない場合にはボーナスを没収するというやり方では、同じ金額のボーナスを生徒の成績が向上した場合に事後適しに支払うやり方にくらべて、より教師の成果が改善することを発見した;この知見は行動経済学者によって発展させられた、損失回避仮説と整合する
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限界効用理論の父の一人であるJevonsは、限界主義を古典的経済学からのラディカルな逸脱として提示した;これに対して、Marshallは限界主義と古典的政治経済学の間の補完性を注意深く示した;そしておそらく、Marshallの戦略は限界主義のより早い受容を可能にした
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Jevonsにとって思考のラディカル変化に見えたものは、生産と分配の問題から消費と交換に焦点を移行し、また長期の現象から短期の現象へと分析の焦点を移行させることだというのが次第ににわかってきた
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同様にして、一部の行動経済学者にとってラディカルな変化として見えているものは、集合的行為の理論から個人の選択手続きへ、あるいは価格理論的モデルから還元主義的モデルへの移行としていずれ理解されるかもしれない
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しかしながら、還元主義的モデルが価格理論的アプローチを補完するのではなく、むしろ代替すべきかどうかについては明らかではない;様々な数学的発展などによって複雑性をより豊かに表すことができることになる一方で、経済学的な重要性が失われてしまう可能性もある