『シリアの花嫁』

http://www.bitters.co.jp/hanayome/index.html
岩波ホールにて。

結構色々なところで、紹介されているのを見かける。おそらくパレスチナ自治区ガザでの情勢悪化によって、中東への関心が高まっていることが一つの理由なのだろう。


イスラエル占領下のゴラン高原に住む、イスラム少数派民族の女性モナが親戚にあたるシリアの人気俳優に嫁ぎにゆくという話。

結婚をするとシリア国籍が確定して、二度とイスラエルには戻って来られなくなる。結婚という普通はおめでたいはずのことを前にして、家族とはもう一生会えなくなるという、別れの悲しみが描かれている。

家族の方も色々な問題を抱えている。結婚式当日にシリアの新大統領を支持するデモが行われ、以前政治運動によって投獄され、保護観察下にある父は、国境で行われる結婚式へ行くことを認められない。かつて父や村の人々の反対を押し切ってロシア人女性と結婚し、ロシアに渡った長男は、妹の結婚式のために村に帰ってきても父に口を聞いてもらえない。


日本と違った宗教的・民族的な規範が強い社会では、結婚のあり方もいかに違うかということを考えさせられて、面白かった。後半で、入国手続きの際にトラブルが起きるシーンは、冗長で少しうんざりしたけれども。


ところでブルデュー先生曰く、恋愛ないし結婚については下記のようだということだが、

ハビトゥスによるハビトゥスのこうした[一種の相互的な異文化受容という]標定作業は、社会における人々の出会いを方向づける直接的な新和力の基本となっているものである。それは社会的に見て調和のとれない関係を成立させない方向へ、調和のとれた関係を成立させる方向へ導くのだが、そうした操作は相手に対する共感または反感という、社会的なレベルでは罪のない言い方によって表現される以外は、いっさい言葉にされる必要がない。たがいにこの人しかいないと思えるような相手との唯一の出会いというのはきわめてありそうもないことなので、じつはそれがたまたま別のひとでもよかったのかもしれないという可能性は隠蔽されてしまい、たがいの選択を幸福な偶然、窮極のものと思える一致(「それが彼だったから、私だったから」という形の)としてとらえる方向へと二人は導かれ、こうして奇蹟の感情はさらに倍加されるのである。
(ピエール・ブルデューディスタンクシオンⅠ』石井洋二郎訳、p.374)

こうしたことは、「自由恋愛」(もちろん見えない階級の原理が働いているのでカギカッコつきになるわけだが)が担保されている社会でないと成り立たないのだなあ、と思った。この『シリアの花嫁』のように、一度もあったことのない人と結婚するということがあり得る社会では、おそらく別の「運命的な出会い」をつくりだすプロセスが作動するのだろう。