Swift (2004) Would Perfect Mobility be Perfect?

Swift, Adam. 2004. "Would Perfect Mobility be Perfect?" European Sociological Review 20:1-11.

 社会学における世代間階級移動研究の規範的な側面について、社会哲学の観点から批判を行っている論文です。社会移動の研究者はしばしば、何らかの社会的カテゴリー(例えば職業)について、親子のクロス表(移動表)を作成し、関連性を示す指標(例えばオッズ比)が弱ければ、その社会はより公正であると判断しています。もし、親子の関連が全く存在しないという状況であれば、それは「完全移動」(perfect mobility)として定義されます。

 しかし、著者は完全移動が公正や平等の度合いを測る上での適切な指標とはなりえないということについて、いくつかの論点を挙げてゆきます。ひとつは、ある地位間の移動可能性ではなく、それら地位の不平等の度合いが規範的には重要な場合があるというものです。例えば、社会に2つの階級が存在し、2時点でその規模や生活水準が変化している時に、それぞれの時点における階級間の移動のオッズ比は全く変化しないものの、上の階級の規模は大きくなり(例えば、ある行や列に定数をかけてもオッズ比は不変)、またどちらの階級の生活水準も向上しているということがありえます。

  また、著者は社会学者の用語における「可能性」(chance)には曖昧さがあると言います。移動の可能性を統計的な確率として捉えれば、労働者階級の子どもが、サービス階級の子どもに比べて、サービス階級に到達しにくいのはたしかに事実として確認されます。しかしその事実自体は、両方の階級の子どもがサービス階級に到達する「機会」(opportunity)が同じかどうかについては何も教えてくれないというのです。異なった意味における「可能性」、すなわちある個人がそれを利用するかどうか、利用したいと思うか、利用できる能力があるかどうかという意味が入ってくるためだということです。仮にある階級に到達することに対して、異なった統計的確率が観察されたとしても、それはまったく等しい機会を持つ生徒が異なる選好を持つことによるためかもしれません。規範的な側面においては、重要なのは、機会としての可能性であり、統計的確率としての可能性ではないと著者は言います。

 さらに、著者は「機会の平等」と「メリトクラシー」という2つの概念を社会学者が重視していることに注目します。ここで想定されているのは、社会的な上昇機会は人種・ジェンダー・出身階級とは無関係であるのが望ましいというものです。しかし、この概念も社会哲学者からは疑問が出されているということが議論されます。運平等主義(luck egalitarianism)という立場では、人々の統制が及ばない領域における不平等は公正でないと主張されます。この観点では、メリトクラシーと同様に、出身階級が個人の地位に影響するのは不公正であると判断されます。しかしそれだけではなく、生まれ持った能力(natural ability)による差も同様に不公正だとされます。出身階級も、生まれ持った能力も、道徳的に恣意的(morally arbitrary)な外的影響であって、個人の責任が及ばない要因であるためということです。

 

 本論文の批判で用いられている概念自体は新しいものではありませんが、社会移動の研究に即して論じていることが新しいということになるでしょうか。選好に基づく個人による選択の面における格差をどのように考えるかは難しい問題です。例えば、Bowlesらの研究のように学校や雇用主が特定の選好を評価するということを考えると、選好の違いは機会の不平等ではないと済ませるのもどうなのかという気がします。近年の実証研究においては、機会と選好の面をまずは区別して分析しようとしているというのがひとつの方向でしょうか。

 例えばRawlsのように仮想的な社会を強く想定しても、公正な分配原理を論じるのは壮大な試みになるので、実証研究で得られた知見の規範的な側面を論じるというのは重要であるもののどこまでやればよいのか深入りすると大変そうです。