- 作者: ドストエフスキー,安岡治子
- 出版社/メーカー: 光文社
- 発売日: 2007/05/10
- メディア: 文庫
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駒場時代のロシア語の教官だった、安岡先生の新訳で読んでみました。
世間から閉じこもり、異常なまでに自意識が肥大した男の地下室からの独白という体裁で物語は進んでゆきます。男の異常な自意識を表すエピソードの1つとして、ビリヤード場で出会った将校への復讐が挙げられます。ビリヤード場で通り道を塞いでいた主人公に対して、ある将校がまるで物でも扱うように強引に移動させます。これに屈辱を覚えた主人公は、この将校の行動を徹底的に観察し、今度は通りですれ違っても道を譲らないという決心を立てます。さらに、ぶつかって騒動が起きた時の、周囲の目線のことも考えて、わざわざ給料の前借りしてまで、上等な服を買い込みます。何度も逡巡した後に、将校にぶつかりにゆきます。将校はぶつかったことに気づいていないようだったものの、主人公は一歩もひかずに対等にすれちがったという優越感にひたります。
また別のエピソードとして、学校時代の同級生の送別会に突如参加しにゆくというものが描かれます。主人公は同級生たちを毛嫌いしていたにもかかわらず、持ち前の見栄から参加すると言い出し、引くに引けなくなります。結果として無理をして借金をしてまで送別会に参加することになり、さらにその場でも自らが侮辱的に見られないように、悪態をつきまくります。
地下室の住人によるこうした異常な行動を通じてドストエフスキーが描いているのは、チェルヌイシェフスキーという当時のロシアにおけるインテリゲンツィアへの批判だとされます。チェルヌイシェフスキーによる、「人間が悪事を行うのは、ただ自分にとっての本当の利益を知らないためである」という啓蒙主義的・合理主義的な主張に対して、「二二が四は死のはじまり」という言葉に集約されているように、合理主義が人間の自由な意思を奪うというのがドストエフスキーの立場です。しかし、人間の自由を擁護し、ただ地下室で自意識を拡大させ、無為になってゆく男のような生き方が理想社会につながるとはもちろん考えられません。この後、ドストエフスキーは後期の五大作品において、ロシア正教への回帰を主張してゆくようになります。