マルセル・モース(吉田禎吾・江川純一訳)『贈与論』

 

贈与論 (ちくま学芸文庫)

贈与論 (ちくま学芸文庫)

 

 

 このような極めて複雑なテーマの中で、しかも変動する多様な社会事象の中で、われわれは、奥深いが他の事象から切り離された一つの事象のみを考察したいと思う。それは給付が、外見上は任意で打算のない自由意志による性格のものでありながら、実は拘束的で打算的な性格のものであるということである。[13]

   マルセル・モースによる、人類学の古典の1つです。ポトラッチやクラなどの、伝統社会に見られる贈り物に関わる慣習が、人々にどのような義務や経済的利害を負わせているのかが研究されています。人類学の研究では、本書でも何度も参照されているマリノフスキーのように、フィールドワークを行うのが一般的ですが、モースはそのようなスタイルをとっていません。他の人類学者が行ったフィールドワークをさらに深く分析し、また異なる社会についての比較を行うという方法を用いています。

 

 誰も贈り物やポトラッチを拒否する権利を持っていない。贈り物を拒むことはお返しすることを恐れていることを表している。実際にお返しするまでは「やられた」状態になることを恐れる。実際、その時にはすでに「やられた」状態になっているのである。それは自分の名前の「重みを失う」ことであり、あらかじめ自分がやられたことを認めることであり、あるいはその逆に自分が勝利者で不敗であることを宣言するようなものである。

(中略)

贈り物を受け取ると、それとともに「荷物を背負い込む」ことになる。ある物を受け取り、ある祝宴に参加した時、実はそれ以上のことをしたのである。つまりある挑戦に応じたわけであり、お返しが確実にできるからそれを受け入れ、自分が身分不相応ではないことを示したのである。[106-107]

  贈り物を与える・受け取る過程に、競争・誇示・利益追求といった社会心理的な動機が存在しているということです。しばしば、資本主義が人々を地位や財産の利益追求に駆り立てており、それ以前の社会は牧歌的であったなどと私たちは考えがちですが、伝統社会においても同じような原理が働いているということが見て取れます。

 

 われわれの道徳や生活の大部分は、いつでも義務と自由とが入り交じった贈与の雰囲気そのものの中に留まっている。幸運にもまだ、すべてが売買という観点から評価されているわけではない。金銭面での価値しか持たない物も存在するが、物には金銭的価値に加えて感情的価値がある。われわれは商業上の道徳だけを持っているわけではないのである。[260]

  モースは、伝統社会に見られる贈与の慣習は、近代の市場経済においてもなお残存していると捉えています。贈与に関わる義務は人々に不自由さをもたらしますが、一方で美徳という面もあります。しかし現代では、モースが感情的価値と表した領域も、ますます金銭的価値に置き換えられようとしていることを、例えばマイケル・サンデルは指摘しています