http://d.hatena.ne.jp/kodoka-alumni/20100215/1266227727
公開シンポジウム「学校教育の質をどのように評価するか:学校の機能と評価」
日時:2010年3月5日(金) 13:00〜17:00
場所:日本学術会議講堂(東京都港区六本木7-22-34) (東京メトロ千代田線「乃木坂」駅5番出口)
主催:日本学術会議・教育学委員会 教育の質分科会
共催:東京大学大学院教育学研究科 学校教育高度化センター
後援:日本教育学会 日本教育方法学会 日本教育社会学会 日本教育心理学会
全体司会・コーディネーター:岡田加奈子(千葉大学教授・連携会員)
趣旨説明:秋田喜代美(東京大学教授・第一部会員)
話題提供:
「イギリスにおける学校評価」志水宏吉(大阪大学教授・連携会員)
「アメリカにおける学校評価」大桃敏行(東京大学教授・連携会員)
指定討論:
藤村宣之(東京大学准教授・連携会員)
乾彰夫(首都大学東京教授・連携会員)
無藤隆(白梅学園大学教授・連携会員)
各国によって教育制度は少なからず異なっているものであり、また変化も速いので、知らない内容がかなりあった。知識として押さえておいた方がよさそうだと思ったのは、アメリカにおけるNCLB(No Child Left Behind)法、ボストン・パイロット・スクール、イギリスにおけるキー・ステージ・テストあたり。
疑問に思ったのは以下の点。
■職業・労働についての言及が希薄だった。学校教育の格差が問題となるのは、それが将来における不平等と結び付き得るからであり、それを抜きにして議論しても、「質」の概念は狭く限定されたものにとどまる。
■シンポジウムの冒頭で機会均等の保障ということが強調されていた。しかし、佐藤俊樹『不平等社会日本』で主張されているように、機会の不平等は結果の不平等を通じて事後的・部分的にしか分からない。特に本シンポジウムの主題である「質」は評価の軸が多元的であるために、事後的にある不平等が観察された際に、「ある質を徹底できていなかったのか」それとも「ある質の重視がそもそも間違いだったのか」というアポリアが伴い得る。こうした問題が考慮されずに、機会の均等という言葉が表面的に使われていた印象を受けた。
■日本に限らず、学校教育の質の評価が進むことによって、「現場がすさんでいる」という話が何度か出てきた。しかし、評価の必要性自体を疑う話は出てこず、別のかたちの、よりよい評価を徹底してゆこうという方向に議論がなされていた。自分としては、むしろ「評価はしなくてもよい」という議論もあり得るのではないかと思った。矢野眞和『試験の時代の終焉』では知識の水準が一定に保たれていれば、選抜は不確実にし、人々の育成を重視した方がよいということが述べられている。この議論が学校教育の質の評価をめぐる議論にも敷衍可能なのではないかと思う。すなわち、ある程度の学力が結果として保障されていれば、そこまでプロセスを厳密に評価する必要はなく、むしろ教員の研修などを充実させる方に力を入れるのがよくはないか。