偏見とは(オックスフォード社会学事典・第3版)

 

  • A Dictionary of Sociology(Oxford University Press, third edition)による、prejudice(pp. 518-9)の拙訳

 

 偏見とは通常、人や物に対してあらかじめ持たれた好意的・敵対的な意見、あるいは先入観(bias)を意味する。先入観とは否定的なものだけではなく肯定的なものでもありうることを記憶に留めることは重要であるものの、この用語はもっぱら、何らかの集団あるいはその成員に対する否定的あるいは好ましくない態度に言及するものである。偏見は真であるかどうかが検証されているかということよりも、むしろ個人の感情や態度と関係したステレオタイプ化された信念を特徴としている。Gordon Allportの古典的著作であるThe Nature of Prejudice(1954)では、次のように定義されている。「(偏見とは)欠陥がありかつ融通のきかない一般化に基づいた嫌悪感である。感情としてだけではなく、外に示される場合もある。集団全体に向けられる場合もあれば、集団の中の個人に向けられる場合もある」。他の人々にくらべて偏見を持たれやすい外見を有する人々もいる。精神分析理論では、権威主義的パーソナリティ類型では偏見と関連した融通がきかない態度が持たれやすいことが指摘されている。
 1920・30年代に、社会心理学では偏見は非常に注目を浴びた用語となった。この理由の一部には、態度理論の発展への関心(くわえてBogardusの社会的距離尺度など、態度を測定する新たな技術)や、アメリカにおいて広く存在した民族的マイノリティへの敵意や、ヨーロッパにおける反ユダヤ主義の台頭への関心、そしてマイノリティ集団一般への関心といったものが存在した。偏見研究の当初の伝統は2つの主要な著作が出版された時期にピークに達した。これらは、Theodor AdornoらによるThe Authoritarian Personality(1950)と、Gordon AllportによるThe Nature of Prejudice(1954)である。前者は偏見のパーソナリティ基盤に関してもっとも詳細な分析であり、後者は偏見の心理学的、構造的、歴史的な基盤について研究の知見を統合することを試みたものである。多くの研究がこの伝統に従っているものの、偏見という用語はまた社会学の内部で強く批判されてきており、それは特にその個人主義的な意味合いに向けられてきた。
 社会学的な定義はまた、偏見とは合理性、正義、寛容などの社会的規範に対する侵害として規定する傾向にある。過剰な一般化、予断、個人間の差異を考慮することの拒否、そしてステレオタイプ化された思考は、すべて合理的な思考に反する。同様にして、偏見による正味の効果が、値しないような何らかの不利を個人あるいは集団に生じさせるのであれば、偏見とは本質的に不公正なものである。偏見はまた不寛容と、さらには人間の尊厳の侵害を含むものである。Zygmunt BaumanはThinking Sociologically(1990)において、偏見は道徳のダブルスタンダードに帰結することを示唆している。内集団の人々が権利として受けるに値するものが、外集団の人々に行われた場合には特別のはからいや慈善行為になるのである。Baumanはさらに、「もっとも重要なのは、集団外の人々への敵意は、道徳的良心と衝突しないようだ」と主張している。どちらの側を引き受けるかによって、まったく同じ行為が異なった名前で呼ばれ、大きな称賛あるいは非難を呼ぶ。ある個人による解放の行為が、別の個人によるテロ行為になる。
 偏見は内集団と外集団の存在に対する帰結と強化であり、それは「やつら」と「われわれ」の区別を体現している。内集団と外集団への態度は本質的に関連している。なぜならば、内集団への感情は外集団への感情に帰結し、逆も同様であるためである。片方の側は、もう片方へ反対しているという事実によって自らのアイデンティティを引き出していると言うこともできるだろう。この意味において、外集団は内集団の結合と情緒的安定のために必要なのであり、そして外集団とは創作される必要があるものなのかもしれないのである。古典ではあるものの道徳的に不穏な事例として、Muzafer SherifとCarolyn SherifがAn Outline of Social Psychology(1956)において、内集団と外集団がいかに実験的につくりだされるかを示している。著者たちは少年キャンプの活動において、特別につくられた2つのクラブが互いに報酬を競わなければならないように仕掛けをつくった。はじめの時点では互いのクラブに同数の友人が存在したにもかかわらず、少年たちはすぐに敵意とステレオタイプを相手のクラブに持つようになった。著者たちは、ステレオタイプとは学習されるものというよりはむしろつくり出されるものであると結論づけている。
 敵が近くにいる場合に、集団は結束を固める。偏見は敵の悪行を誇張することで、正義と寛容の規範が働かなくなることをより確実にする。偏見は常に何らかの敵対行為に帰結するわけではないものの、偏見が現れたときには(少なくとも)忌避、あるいは差別、さらにはホロコーストのような虐殺にまで及びうる。