潮木守一『職業としての大学教授』

職業としての大学教授 (中公叢書)

職業としての大学教授 (中公叢書)

序章
第一章 欧米のピラミッド型は変化したのか
第二章 日本型大学社会の形成
第三章 大学教師の値段はどうやって決まるのか
第四章 博士になるための茨の道
第五章 変化を続ける大学
終章

御年75歳になろうかという潮木先生だが、この方の研究意欲は衰えるということがないのだろうか。しかもこの前は学会発表もされていたし、東進堂から単著、世織書房からは訳書が近刊予定らしい。


本書は、著者お得意の高等教育の国際比較の観点から、アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、日本の大学教授職がどのように拡大し、またどのような選抜や育成のメカニズムが存在しているのかを分析したもの。そして、日本における問題として特に博士課程修了者に対する大学教授職の受け皿がなく、今後も改善の兆しがないことを取り上げ、「博士課程は一時的に募集を停止すべき」との過激な提言まで行っている。

 現在、博士課程からは年間1万6000人の卒業者が出てくる。しかし現在17万人という大学教員の規模は、今後の18歳人口の減少とともに、これ以上減少することはあっても増加する見込みは少ない。今後10年間を見ると、年々新規採用数はせいぜい5000人程度、多く見ても8000人程度にしかならない。つまり博士課程修了者の半分しか吸収する能力がない。いまや大学教員の需要と供給が、バランスを失している。
 その結果、ますます多くの頭脳と情熱と青春が失われようとしている。青春は二度と取り戻せない。ただちに博士課程の募集を一時停止してでも、全国の博士課程を持つ大学を中心に、さらには全大学を含めて、今後の大学教員養成の制度設計を見直す必要がある。これは大学の責任であって、どこか他の機関の責任ではない。むしろこうした緊急事態を招いたのは、700に及ぶ大学が、自大学の利益のみを追求するばかりで、大学全体、学問全体を自己点検し、その将来を構想する機関を持たなかったことに責任がある。事態は緊急を要する。
(pp.2-3)

筆者が注目するのは、日本以外の国は、大学教員へのキャリアが他の職業機会と比較して十分な競争力を維持できているかどうかをたえず測定し、何らかの危険信号が現れると、ただちに警報を発する機関を持っているという事実である。そしてその警告を議会、資金配分機構をはじめさまざまな関係団体に伝達し、具体策を講じるうえで重要な役割を演じているという事実である。日本の大学教員は、自分たち自身を含めて、その後継者誘致、後継者育成にあまりにも無関心に過ぎたのではなかろうか。それが大量の「博士フリーター」を生産する結果を招いたのではなかろうか。
(p.165)

大学教授職の先細りすでに少なからず議論されていることではあるが、本書では国際比較の観点から、かつ最新のデータを提示されていて非常に勉強になった。

いくつか重要な指摘を他にも挙げてみる。

■日本は大学教員中に教授の占める割合が40%という、「逆ピラミッド型」の構成をしている。すなわち、一度任期なしの職に就いてしまえば、全く論文を書かなくても教授になれるという時代が長く続いてきた。これには、大学院生・教授のうち、自大学出身者が占める割合が極めて高いという「自家培養」の風土も深く関わっている。ドイツでは、内部昇進禁止が法律で長く定められてきたという歴史があり、現在でも実質的にはそれが続いている。

■アメリカでは教授に対して、大学は給与や福利厚生の交渉を行い、優秀な教授を集めて大学の地位を高めようとする。しかし、日本では国家公務員法に基づき、一律処遇の給与が続いてきた。学問の世界は業績を競い合う社会であり、優れた功績を上げた教員はそれだけふさわしい待遇が与えられるのは当然のことである。一律処遇という悪平等が、学問的な野心を抱いた若者を大学教授職の世界から追いやってきた一因であった。

■他国では、博士号取得者はどの専門分野でも民間企業で評価されている。すなわち、博士課程を修了することの見返りがある。しかし、日本では博士課程修了者は大学教員になるという道しかほとんど開かれていない。また、これからは18歳人口の減少や大学進学率の状況を考慮すると、現在17万人程度の大学教員の職は5万人以上減少するという研究がある。大学と民間企業の間にある溝を埋め、ハイブリッド化を進めなければならない。

■大学院進学者が最近減少しているのは、博士課程を修了するまでに多額の放棄所得を覚悟しなければいけないからで、それだけの投資を行うほど現在の大学教員のポストが魅力的だとはとても思えない。学部卒あるいは修士修了の時点で、将来大学教員・研究者としてやっていけるだけの能力と意欲を持った者だけを選び出し、集中的に資金を投入する方が、博士号を持ったフリーターを量産するだけよりは、はるかに合理的である。


著者はかなり大胆で、ある意味分かりやすい提言を行っているが、実際に精密な制度設計を考えてゆくとなると難しいところがあると思った。というのも、著者が下記のように言う。

問題の本質は名称ではなく、大学教員になるためのキャリア・パスをどう設計するかにある。このキャリア・パスの制度設計は、少なくとも四つの条件を考慮する必要がある。第一の条件は、透明で誰にでも分かりやすい制度である、第二に、このキャリアはかならず選抜を伴う以上、すべてのものを一律に処遇するといった平等主義はとれない、第三に途中淘汰がある以上、それを保障する何らかのセイフティー・ネットがなければ、こういうキャリアを選択する者がいなくなる、第四に大学外部に開かれたキャリアと対等に競争できない限り、やがて大学は人材を失う、ということである。
(pp.82-83)

このように、選抜をしながらセイフティー・ネットを張るというのが具体的にはどうすればできるかというのが大きな問題。選抜で漏れた場合に民間企業など他の受け皿が働くことはあまり期待できそうにはないわけだし、現在の高等教育への公的支出では職につくまでの十分な所得保障を行うこともできない。
だがら著者は博士課程の定員を減らして集中的な投資をせよというわけだが、日本における博士課程在籍者は国際的に見れば多くはないわけで、ある程度の母数がない限り選抜にはならない。

まあ、でも大学教授職が民間企業のキャリアと比べて魅力がなさすぎるというのには同意で、改善しなければいけないと思う(ところで、大学教授職の職業威信スコアを国際比較した場合、やはり差は見られるのだろうか)。


しかし教育社会学はある意味、大学教員を目指すというのがいかにriskyかというのが一番客観的に分かってしまう学問分野なので、何とも言えない気分になる。