君塚直隆(2019)『ヨーロッパ近代史』

 

ヨーロッパ近代史 (ちくま新書)

ヨーロッパ近代史 (ちくま新書)

 

 

 著者の先生はイギリスの政治外交史が専門ということですが、ルネサンスから第一次世界大戦までのヨーロッパの歴史を、「宗教と科学の相剋」、「神から人間へ」というキーワードで読み解くという、やや異色とも言える構成の本です。

 こういう本が読みたかったというのが率直な感想で、非常に面白く読むことができました。大学受験で世界史を選択していないので、自分はヨーロッパ近代史に関して疎く社会科学の古典を読むときにもしばしば苦労するのですね。しかし、社会科学の理論や概念はある程度に知っているので、宗教の世俗化や、社会契約などの用語で各時代の特徴を解説してくれるのが、すらすらと頭に入りました。

 

 各章は、その時代を象徴する人物の人生とともに主要なできごとを追うという形式になっています。

 

  5章の「啓蒙主義の時代」は、タイトルを見た時にルソーが出てくるのかなと思ったら、ヴォルテールでした。

 

 

1章
  • ルネサンス前期(1401~1520年頃)はそれまで「暗黒時代」と形容されることが多かった中世ヨーロッパが近代へと飛躍する契機の一つだった
  • 中世ヨーロッパにおいては、人間はいやしい存在にすぎず、学問や芸術の対象にはなりえなかった
  • 芸術家の目的はあくまで神の栄光のためであり、自らの作品に署名することもなかった
  • しかし、人間の素晴らしさに注目するという古代ギリシャの学問・芸術の伝統が、イスラーム世界から逆輸入されることで、風穴が開けられた
  • 16世紀になると、職人(artisan)として扱われていた画家・彫刻家・建築家は芸術家(artist)として扱われるようになり、自らの個性を出していけるように変わった
 
2章
  • 中世ヨーロッパはキリスト教世界であり、その最高峰であるのがローマ教皇
  • 歳月が立つにつれ、「教会の外に救いなし」という観念が生まれた
  • 神聖ローマ皇帝でさえ、教皇から破門を恐れた(カノッサの屈辱
  • ルターによるローマ教皇庁の批判は、当時最新の活版印刷技術によって、ヨーロッパ全土に広まった
  • 神と信者一人ひとりの直接的な関係を強調するルターの思想には、個人の人格や主体性というヨーロッパ近代の思想の特質のさきがけが見られる
  • ルターはドイツの人々が自らの言語で聖書を読めるように、ラテン語からドイツ語への翻訳に取り組み、ルター派キリスト教国では劇的に識字率が上がっていった
 
3章
 
4章
  • 1630~1700年は、ヨーロッパに絶対君主制が確立された時期
  • 経済的には「重商主義」の全盛期であり、国家全体の富を増やすために、高率の関税で自国産業を保護育成し、貿易差額で利益を得るために、特権商人による貿易独占が奨励された
  • 17世紀後半のオランダは海運業によって栄え、また宗教的に寛容な土地であった
  • イングランドからロッテルダムに逃れてきたロックは、こうした寛容な風土の中で、「市民政府」や「社会契約」といった考え方を発展させ、絶対君主制を批判した
  • ストア学派の考え方を近代的に解釈した「自然法」という考えを独自に受け入れていたロックは、神と人間とは個々に結びついており、生まれながらに特定の教会や宗派に個人の信仰を規制されることはないと説いた
  • ロックは、正統な政府の権威と直接的に敵対するような信仰の持ち主や、他の宗派とは平和に共存できない宗教、さらには政教分離を認めないで世俗の問題に介入する宗教、無神論者には「宗教的寛容」は当てはめられないと断言している
  • 思想史上では、ロックより以前にホッブズによって「自然法」の概念は生み出されている;中世まで自然法は「神の秩序の法」と捉えられていたが、ホッブズによりそれは「人間の理性に内在するもの」とされ、人間はこの自然法によって国家や社会を構築できると定義された
 
5章
  • 1701~1789年のヨーロッパでキーワードとなるのは、「王位継承戦争」と「勢力均衡」(balance of power)
  • 宗教改革の後にヨーロッパの王侯たちはカトリックプロテスタントにわかれ、いずれかが改宗することを避けるために、両者の間の政略結婚は行われなくなった
  • 結婚相手の選択肢が狭まったことで、オーストリア・スペインのハプスブルク家とフランスのブルボン家の三家の間で結婚が繰り返され、病弱な後継者が次々と生まれることになった
  • 太陽王ルイ14世の時代には、フランス語が外交官の共通言語であった;ヨーロッパ北部のプロテスタント諸国にとって、それまでの共通語であったラテン語は、「カトリックの言語」として避けられ、もはや外交上の共通言語にはなりえなかった
  • 16世紀前半から戦争が続いたフランスでは、戦費調達が課題となり、17世紀には各種の官職を売却するという「売官制」が広く見られた
  • ヴォルテールの父も、公証人としての実績を積み重ね、官職を手に入れたという、新興貴族階級の一人だった
  • ロンドンに亡命したヴォルテールは、名誉革命後の宗教的寛容の空気を絶賛し、ロックの著作に多く触れた
  • 当時フランスでは理解されていなかったニュートン力学の重要性にいち早く気づいたのもヴォルテールであった
  • 18世紀前半のヨーロッパ大陸では、シェークスピアの作品は、英語という「田舎言語」で書かれていたこともあってあまり知られておらず、これを広く紹介していく役割を担ったのもヴォルテールだった
  • ヴォルテールが唱えたのは「理神論」(deism)であり、これは信仰と理性の調和を図り、創造主である神がこの世界を造った後には、世界は人間によって理解可能な理性に秩序によって支えられるという考え方である
  • 「あなたの意見には反対だが、あなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」とは、ヴォルテールが残した名言の中でもっとも有名なものであり、彼は知識人による世論の喚起・啓蒙活動の重要性を示した最初の人物とも言える
 
6章
  • ナポレオンの登場を「歴史上可能なもっとも優れた現象」と評価し、彼を真の英雄として讃えたのがゲーテであった;こうした手放しのナポレオン礼賛は、ナポレオンが皇帝に即位すると聞いて激怒したベートーヴェンと対照的である
  • 科学の全般に興味を示したゲーテであるが、あまり数学には興味を持たず、経験主義的な科学をより好んだ
  • ルイ14世の野望に始まり、ナポレオンの失脚で終焉を迎えた時代は、「長い18世紀」(1688~1815年)と形容されることが多い
  • ナポレオン戦争では、イギリスが「対仏大同盟」で結ばれたヨーロッパ大陸の国々に送る莫大な軍資金が勝敗を決したと言われており、歴史家のジョン・ブリュアは効率的に莫大な資金を集め、効果的に戦争に使える国家のことを「財政=軍事国家」(fiscal-military state)と呼んでいる
  • ゲーテは自作をすべてドイツ語で書いており、文化的・文学的な「国民主義」をいち早く牽引したものの、政治的な側面においてはきわめて保守的であり、貴族政治を擁護した
 
7章
  • 1830~1880年は、ヨーロッパにつかの間の平和がおとずれ、その平和の調整役としてパーマストンのイギリス政府が尽力したことから、「パクス・ブリタニカ」の時代とも呼ばれた
  • イギリスは、他のヨーロッパ諸国に先んじて奴隷貿易大英帝国内での奴隷制度を廃止したものの、他方では容赦なく植民地を拡大していた
  • 18世紀半ばのイギリスでは、17世紀に端を発する科学革命と合理主義が一つの頂点を迎えていた;これらの知性的基盤となったのが、地主階級や専門職階級、新たに出現した商工業階級によって支えられた様々な種類の「公共圏」(博物館、美術館、図書館、科学・芸術のクラブ組織)であった
  • イングランド国教会は、教義的にも儀礼的にも、カトリックプロテスタントの中間に位置し、悪く言えば中途半端であるが、よく言えば何事にも寛容であった;これがイギリスに固有の生物観を生み出す原動力の一つになったのかもしれない
  • ダーウィンの進化論は、彼自身が思いもよらぬ方向へとつながった;ハーバート・スペンサーは、ダーウィンの理論から「社会進化論」を構築するヒントを得た
  • スペンサーの「適者生存」の概念は、ヨーロッパ列強によるアジア・アフリカの植民地化、すなわち「帝国主義」を正当化する理論に利用されるようになった
  • ダーウィンや彼の支持者であるハクスリーが生きた「ヴィクトリア時代」のイギリスは、世俗化や科学の進展が見られた時代であった一方で、きわめて道徳心・宗教心の強い時代でもあった
  • ヴィクトリア時代のイギリスを代表する言葉は、「進化」(evolution)と「自助」(self help)であった
  • ヴィクトリア時代の労働者は自らの仕事に誇りを持ち、「労働」を神聖視する傾向にあった
 
8章
  • クリミア戦争(1853~1856年)は、ウィーン体制下の「ヨーロッパ協調」に終止符を打つ事件となった
  • 皇帝アレクサンドル2世は、1861年農奴解放令を発し、大半の農奴は小作農に転じたものの、彼らの生活は苦しいままだった
  • レーニンは旧弊なロシアを忌み嫌い、ヨーロッパ的な新しいロシアに憧れた
  • ヨーロッパに対する屈折した意識は、ドストエフスキーにも見られ、彼は「ヨーロッパではわれわれは居候であり奴隷でもあったが、アジアでは主人として通用する」という言葉を残している
  • 1903年社会民主労働党の第2回大会において、党員は党組織に参加して活動するもののことを指すと指摘したレーニンに対し、彼の盟友のユーリー・マルトフは党組織の指導の下に協力する者にも党員資格を与えるべきと主張し、対立した;前者は「ボリシェヴィキ(多数派)」、後者は「メンシェヴィキ(少数派)」と呼ばれ、レーニンボリシェヴィキの指導者とみなされていく
  • 第一次世界大戦帝国主義戦争であり、この大戦から人類を救うためには、帝国主義と資本主義を打倒し、世界戦争を世界革命に転じていく必要があるとレーニンは結論づけた
  • 革命によって権力を掌握したレーニンは、交戦国に対して「無賠償・無併合・民族自決」を条件とした講和交渉を進め、また秘密外交の禁止も文言に盛り込まれた;これは秘密外交・領土補償を当然のこととしたヨーロッパ近代外交史を否定するものであった
  • レーニンが確立したのは、民主集中制一党独裁制に基づく「党国家」であり、党を政府よりも上の存在に置き、党と国家をほぼ一体にするこの体制は、中華人民共和国、朝鮮民主主義共和国などでその後に採用され、「アジア的専制」のさきがけともなった