小林多喜二『蟹工船・党生活者』

蟹工船・党生活者 (新潮文庫)

蟹工船・党生活者 (新潮文庫)

プロレタリア文学。今年に入って急に売れているというので読んでみた。某書籍部でも平積みになっていた。

蟹工船』は明治時代、カムチャッカ半島沖で蟹を獲り、缶詰に加工する仕事を行っていた船と、それに乗っていた人たちの話。

過酷な労働条件を強いられていた労働者たちが、現代のフリーターやワーキング・プアのイメージと重なり、共感を呼んでいると言われている。

労働時間の長さ、低賃金、セーフティネットの欠如などは現代の問題と確かに重なる。一方で、文脈が異なる部分もある。

一つは『蟹工船』の時代には、「国家のため」として厳しい労働を正当化するメカニズムが働いていたということだ。国家を強くするために自分たちは働いている、近くを通る駆逐艦を見て「やっぱり日本人はすごいんだ」と思うなど、巧みに不満がそらされていた(現代でもこのような論理が作動する地盤は存在する。「断固」、「決然」に象徴される小泉政権が2005年の総選挙で大勝したとき、都市部の低所得者層の支持が集まったことは良く知られていることである)。

もう一つは、家族や故郷の存在だ。蟹工船で働く人々に、故郷の家族から手紙や衣類などが届く場面がある。労働者たちに「生」の実感を感じさせるような、少し感動的な場面だ。

自動車絶望工場』という本がある。トヨタ自動車季節工として働いた経験のある著者が、その厳しい労働の内実を書いたルポルタージュだ。その著者がある時「絶望工場の季節工と、現在のワーキングプア、どちらがキツイか」と聞かれ、「物理的にはかつてだが、精神的には現在だ」と答えたそうだ。

かつての人々には帰るべき場所があり、仕送りする人々がいて、それが過酷な労働を支えていた。しかし現代のワーキング・プアと呼ばれる人たちは、収入が低いために独身であったり、シングル・マザーが多かったりするなど、往々にして家族の支えが脆弱である。

蟹工船』が読まれるのは、身の周りの人々とのつながりが得られない代わりに、昔の人々に自分を重ねあわせることで精神的な支えが得られるからなのかもしれない。