池上直己,J.C.キャンベル『日本の医療―統制とバランス感覚』

日本の医療―統制とバランス感覚 (中公新書)

日本の医療―統制とバランス感覚 (中公新書)

16年前の本であるが、基本的な議論は現在においても通じると感じた。良書。




「日本の医療政策は、厚生省と日本医師会によって決定されてきており、他は両者の支援者であるか、介入できない観客であるか、のいずれかである。厚生省の政策理念は官僚が策定した計画に従って地域住民に平等な医療を提供する「公衆衛生」であり、日本医師会には各医師が「芸」として高めた医療をだれからも干渉されることなく実践する「プロフェッションとしての自由」がある。」[41-2]


「[※大学医局とその関連病院の強い縦の関係の]もう一つの問題は、教授の意向により昇進が決まるため、病院のとくに若い医師が診察よりも研究を重視した点である。こうした学者としての面に固執する傾向は江戸時代以来の伝統でもあった。いずれにしても、専門医としての資格制度がなかったので、卒業した医師は医学博士の学位を得ることに執着し、社会は学位があることを専門家としての技術レベルの達成として評価した。」[51]


「病院の病床数が制限された状況下で医師数が増加すればかつてのように開業以外には活路を見いだすことは難しい。しかしながら、医師の開業医志向は必ずしも十分に高まっておらず、何よりも問題なのはこれからの高齢社会において求められている福祉との密接な連携ができるような医師の養成が進んでいないことである。」[83]


「[※日本の医療保険制度は]制度が複雑で、微妙なバランスのうえに成り立っているので、今の医療保険制度によって自分は相対的に「得」をしているのか、あるいは「損」をしているのかは必ずしも明らかではなく、それが国民の不満を一定レベル以下に抑えるうえで役だっているといえよう。」[116]


「日本の医療機関は圧倒的に民間が多く、また医療保険はたくさんの保険者に分かれていて、しかも支払は出来高払いで行われている。各診療行為の単価は診療報酬体系によって統制できているが、点数を改定する際は中医協において診療側の合意を得る必要がある。こうした条件下では本来ならば医療費を抑制することは非常に困難なはずであるが、1980年代においては医療費の伸びを国民所得の伸びの範囲に留めることに成功している。」[143]


「日本におけるミクロの医療費政策は単に価格面を統制しているだけでなく、政策目標に沿って個々の診療行為の点数を弾力的に上げ下げすることによって各医療機関が提供する医療サービスに大きな影響を与えている。さらに、通達等を出すことによって各診療行為を請求するうえでの条件に対して臨機応変に制限を加えている。そして最終的には、各医療機関が毎月提出するレセプトを審査することによって、地域の標準から逸脱した場合には請求額を減額している。」[177]


「日本の医療における問題分野とは次の五つである。第一は、「三時間待って、三分診療」で代表されるような長い待ち時間と短い診察時間である。第二は、医師の説明が不十分である点である。第三は、諸外国と比べて施設面でも人の面でも見劣りする病院の姿である。第四は、世界的にあまり評価されていない日本の医学研究のレベルである。第五は、これまで日本ではあまり取り上げられてこられなかったが、医療システムとしての質を論じるうえで最も本質的な課題である医師を始めとした医療従事者のプロフェッション(専門職)としての質である。」[180]


「第五のプロフェッションとしての質が最も深刻で本質的な問題である。日本の医師を始めとする専門職者は標準的な知識を体系的に修得するように養成されておらず、また専門医の資格も、同僚によるプロセスの評価も、制度として十分定着していない。しかしながら、プロフェッションに全面的に任せた形での質の追求にも問題があり、将来的にはむしろ次の章で述べるように病院組織として取り組むことができるパフォーマンスの評価に重点を置く必要があろう。」[207]


「もう一つ見逃せないのは、国が価格をすべて設定しているので、医療機関と保険者はそれぞれ別個に価格の交渉を一切行っておらず、それによって膨大な管理コストが省かれていることである。」[211]


「以上のような構造を医療は持っているために、「医療経済」にも「消費者主義」にも限界があるといえよう。一方、「科学主義」は標準化した均一の医療サービスを目指しており、それによって医師全員が一定のレベルに達することができれば、患者が最高の医療を提供する医師に集中する問題に対する根本的な解決策になり、こうした観点からもっと評価する必要があろう。」[229]