マイケル・サンデル『それをお金で買いますか―市場主義の限界』

それをお金で買いますか――市場主義の限界

それをお金で買いますか――市場主義の限界

 本書におけるサンデルの批判は、過去数十年の間に市場の論理がありとあらゆる社会生活に拡大させられたことに向けられます。例えば、かつてであれば空港の手荷物検査の行列には誰もが等しく並ばなければならなかったのに対して、現在では追加の費用を支払えば、優先的に受付をしてもらえるというのがその一例です。
 サンデルは市場の論理を拡大させること、すなわちすべてを金銭的な取り引きによって解決しようとすることの問題点を主に2つに分類しています。
 1つは公正に関するものです。金銭を支払うことによって、優先的にサービスを獲得できるようになるのであれば、支払い能力が高い人々とそうでない人々の間に機会の格差が生まれます。このような公正の問題は、空港の行列ではそれほど問題ないかもしれませんが、例えば教育のような領域では大きな問題になりえます。
 もう1つはサンデルがさらに深刻視しているもので、道徳的な腐敗に関わるものです。すなわち、市場の論理がこれまでそれが適用されていなかった領域に拡大されることで、人々が感じていた道徳が変容してしまうというものです。空港の行列で言えば、誰もが等しく時間をかけて待つという市民的な美徳であったものが、単にお金を払えるか払えないかという支払い能力の問題に変わってしまうというようものです。
 道徳的な腐敗の問題があるため、経済学者が想定するほどには市場のメカニズムがうまく働かない例として、つぎのようなエピソードをサンデルは紹介しています。スイスにおいて、原発から出るゴミの処分場の候補として、とある村が選ばれました。住民への意識調査を行った結果、わずかに賛成が反対を上回っていました。次に、原発のゴミを受け入れた場合には住民1人1人に年間数十万円のお金を交付するという条件を与え、再度賛否を問いました。すると、賛成は25%ほどにまで減ってしまいました。金銭が人々に対してインセンティヴを引き起こすという経済学的な想定には反する結果です。これについてサンデルは、当初住民たちは、原発のゴミは誰かが引き受けなければいけないという市民的な義務から賛成をしていたのに、金銭を提示された時には、賛成を買うための賄賂だと感じたたために反対に変じたといいます。すなわち、道徳的な規範がそこでは変容してしまったというのです。
 また、サンデルは他にも興味深い事例について考察しています。アメリカでは結婚式のスピーチを代筆してくれる業者があるというのです。代行業者によって書いてもらったスピーチで、感動を与えることはできるかもしれませんが、それを友人が知ったらどう思うでしょうか。おそらくその感動は薄れてしまうだろうし、代行業者を使ったことは知られたくないと思うだろうとサンデルは言います。すなわち、結婚式のスピーチでさえ市場の取引の対象にすることはできるかもしれないが、道徳的な問題を無視することはできず、また市場の取引の対象ではなかった場合と比べて、その意味が変容してしまうということです。