マイケル・サンデル(2006=2011)『公共哲学――政治における道徳を考える』

 

 

  • この前読んでいた本で、リベラリズムがその原理を徹底させるならば、同性婚のみならず、複婚(一夫多妻制・一妻多夫制)も認めなければいけないはずであるという事例が出されていて、リベラリズムの限界についていろいろと論じられてきました。サンデルによる本書は、平等主義的リベラリズムリバタリアンリベラリズムの両者において主張される、「正と善を独立させる」、あるいは「重大な道徳問題をカッコに入れること」が困難であるのみならず、むしろ望ましくないことが様々な歴史的・現代的事例(妊娠中絶、幇助自殺、汚染権取引、遺伝子操作など)を通じて論じられています。
  • 公共領域における道徳の役割を回避しようとする際に起こる帰結の一つとして、市場原理や企業の商業主義に侵食されてしまうとして、アメリカの学校の教室における企業のコマーシャルが挙げられています。公共領域における市場原理の徹底に関する批判は、サンデルの別の著作でより詳しく論じられていますね。
  • 「負荷なき自己」は"unencumbered self"、「手続き的共和国」は"procedural republic"の訳のようです。
  • アファーマティブ・アクションについて授業で少し扱おうかと思っているのですが、これを擁護する根拠として、(1)過去の過ちへの償い、(2)社会的に価値ある目的を促進するための多様性の確保という2つを挙げられており、このうち正当化可能なのは後者のみだとサンデルが主張しているのは、参考になりました。ここでも、アファーマティブ・アクションによって達成しようとする道徳的な価値(大学教育の持つ公共的価値とは何か)が避けられないということになります。
  • 南北戦争の時期における各州の奴隷の扱いに関する、エイブラハム・リンカーンとスティーブン・ダグラスの対立は、前に読んだ井上先生の本でも紹介されていました。ロールズの『政治的リベラリズム』では、奴隷制に反対するリンカーンではなく、各州の自律的判断を尊重するダグラスの立場を支持してしまうことになるという批判ですが、ロールズが『政治的リベラリズム』では正の優先性をカント的な人格の構想から切り離してしまっていることがそもそもの問題なのだという点が新たに知れて勉強になりました。
  • 本書の最後の章では、権利志向のリベラリズムに対して、コミュニティの役割を過小評価しているという立場を、一律に「コミュニタリアニズム」と括ることの問題点が取り上げられています。サンデル曰く、正義を善と結びつける方法には大きく2つがあり、正義や善を定義するのはコミュニティの価値観であるというものです。しかし、こうしたコミュニティの多数決主義についてはサンデルは反対をしており、そうではなくもう一つの、正義の原理をそれが資する目的の道徳的価値や内在的善に応じて正当化するという立場を取っています。こうした立場では、必ずしも既存のコミュニティにおいて支配的な価値が正義の原理となるわけではなく、また厳密な意味でコミュニタリアン的でもないと言います。むしろ、目的論的、完成主義的と形容するのが妥当であるとされ、なぜサンデルが自身をコミュニタリアンとレッテルを貼られるのを嫌うのかが本章を読むことでよくわかりました。