苅谷剛彦・吉見俊哉(2020)『大学はもう死んでいる?――トップユニバーシティーからの問題提起』

 

 

  • 吉見先生が『「文系学部廃止」の衝撃』や、『トランプのアメリカに住む』で人文系の知がどのような意味で役に立つのかや、ハーバードと東大の組織構造の違いなどについて問題提起をされているわけですが、その関心を苅谷先生にぶつけ、苅谷先生がオックスフォードのカレッジの伝統から大学をいかに捉えられるかや、あるいは「(ポスト)キャッチアップ型近代」の概念を紹介することで、日本の知の生産様式、人材養成の歴史的・現代的な特徴について議論に厚みをくわえているというスタイルです。
  • 日本の大学では教授が権限を持ちすぎていることによって、多忙化してしまっていることを吉見先生が指摘されていましたが、苅谷先生はオックスフォードではジョブ・ディスクリプションが明確化されていることで、責任の範囲が定まり、その外になる業務は拒否できていると指摘いました。ジョブ・ディスクリプションの曖昧さという視点は、日本の大学組織のみならず、日本の雇用システム全般の問題とも関連しうるものですね。
  • カレッジとユニバーシティーの関係について、グローバルなアカデミック・キャピタリズムの中での新たな課題に対応するために、ユニバーシティーが役割を強めていくようになった過程が解説されています。日本も、大学院重点化の際にここの学部を横断するような新たな重層構造が形成されるべきだったにもかかわらず、それができなかったというのが吉見先生の批判点です。結局のところ大学教員は保守的で、業務が単純に増えることはやりたがらないので、いかにインセンティブの構造をユニバーシティーがつくっていくのかというのが、2人に共通した問題意識として感じられました。
  • 4章のAI技術の発展の中での人文知の役割について、AIは既存のデータの蓄積の中での連続的な知を扱うものでなので、非連続的な知や価値は生み出せないというのは確かに現状はそうかもしれませんが、AIに対する脅威で指摘されているのはそうした非連続的な知も近未来に生み出すようになる(シンギュラリティ)ということではないかと思います。
  • 5章の外国人教員比率を高めることに関して、承継教員のポストを純増させることなしには難しいというのはその通りだと思いますし、アファーマティブ・アクションの問題を考える際にも重要な視点だと思いました。たとえば、国会議員の女性比率を短期的に大きく高めようとする際に、定員が同じであれば現職の男性議員に立候補を断念してもらう必要があり、それは抵抗が強くなるので、定員を増やすことなしには難しいという意見を聞いたことがあります。
  • 東大のGLP-GEfILという英語ベースのグローバルリーダー育成プログラムの存在は知りませんでした。英語のみの授業で学位がとれるという教養学部のPEAKについては知っていましたが。全学的な改革にくらべてやりやすさもあるでしょうし、東大生全員が英語を使って仕事をしたりいわゆるグローバル人材になったりするわけでもないので、このように少人数のプログラムというのはよさそうですね。しかしやはり資金調達や、部局を超えた連携については大変のようで、吉見先生が企業に折衝に行ったというエピソードはご苦労が感じられました。
  • 良くも悪くも、苅谷先生も吉見先生もエリート的な大学を「あえて」理想化して議論するところがあると、あらためて感じました。こういう点は矢野先生の著作を読んでいるときに、強いコントラストを感じるところでもあります。