Bourgeois(1981)による組織スラックの定義

 

Bourgeois, L. J. III. "On the Measurement of Organizational Slack." Academy of Management Review 6(1): 29-39. 

 

 Cybert and March(1963)による元の定義:

組織にとって利用可能な資源と、組織の一体性(coalition)を維持するために要求される支払いとの差のこと。

 

  Bourgeois(1981)による定義:

組織スラックとは、内部からの調整へのプレッシャーや、外部からの政策変化へのプレッシャーに対して組織が適応したり、あるいは外部の環境に対する戦略の変化を組織に可能にしたりする、現実のあるいは潜在的な資源という緩衝材である。

 

 私が学部生の時に、学科のシンポジウムにてK先生が、「今の日本の学校教育には余裕がなくなっている。車のハンドルにおける『遊び』にあたるものがもっと必要だと思う。」というようなことを仰られていました。これは学校教育における組織スラックの重要性について述べていたのではないかと、今から振り返って思いますね。

 

Cal Newport (2019) Digital Minimalism: Choosing a Focused Life in a Noisy World

 

Digital Minimalism: Choosing a Focused Life in a Noisy World (English Edition)

Digital Minimalism: Choosing a Focused Life in a Noisy World (English Edition)

 

 

 先日読んだDeep Workが面白かったので、こちらも。本書もいずれ邦訳されそうな気がしますね。Deep Workで主張されていたデジタル技術のもたらすdistractionとの付き合い方に関して、さらに掘り下げる内容になっています。

  1. 一方的な腕相撲(A Lopsided Arms Race)
  2. デジタルミニマリズム(Digital Minimalism)
  3. デジタルの片付け(Digital Declutter)
  4. 一人の時間を過ごす(Spend Time Alone)
  5. 「いいね!」を押してはいけない(Don't Click "Like")
  6. 余暇を取り戻す(Reclaim Leisure)
  7. 注意の抵抗組織に加わる(Join the Attention Registance)

 

 導入部では、「私はかつて人間だった」("I Used to Be a Human Being")という、インターネット上の情報依存に陥った人の記事にふれ、この問題の深刻さに注意を促します。この根拠として、絶えずSNSをチェックするというような行動依存が薬物依存に多くの面で似た傾向を示すという研究や、またアメリカのミレニアル世代では不安障害によってカウンセリングを受ける人々が顕著に増えているという事例を挙げています。

 特に著者が警鐘を鳴らすテクノロジーが、FacebookTwitterなどのソーシャルメディア、あるいはBuzzFeedRedditなどの娯楽情報(infotainment)サービスで。これらの運営会社はユーザーの意識を絶え間なく引きつけ、可能な限り時間を費やさせることで利益を上げる構造になっていることを指摘します。これらのサービスでは人々の依存的な行動を引き起こしやすいにデザインされていたり(「いいね!」機能など)、あるいはスマートフォンの登場によって一日に何度もこれらのサービスにアクセスすることがきわめて容易になったりしたことで、抵抗しようとしても容易には勝てない「一方的な腕相撲」(a lopsided arms race)になってしまっているとのことです。

 このような状況の中で生き方を見つめ直す方法として提唱されるのが、デジタルミニマリズムです。

デジタルミニマリズム

自分の価値観に強く見合うごく少数の注意深く選別・最適化された活動にオンラインの時間を費やし、その他すべてのことは喜んで手放すという技術利用の哲学のこと。

 

 この哲学に従った生き方として、著者が大きく参照しているのが、ソローの「森の生活」です。ソローが主流の経済学と異なって人生における時間をコストの計算において重視していたことや、現代社会における孤独(solitutde)の価値が説かれています。

 興味深かったのは、ソーシャルメディアが人々にもたらす効果に関して、実証研究の結果が一致していないという箇所です。ソーシャルメディアの利用が人々の幸福感を増すという結果と逆に孤独感を増すという結果が混在しているとのことですが、著者の解釈によるとポジティヴな結果を示す研究は利用者の「特定の行動」に注目している一方で、ネガティヴな結果を示す研究はソーシャルメディアの「全般的な利用」に注目しているとのことです。

 つまり、たしかにソーシャルメディアの利用自体にはポジティヴな効果があるとしても、これを打ち消す要因として、ソーシャルメディアをより利用するほどオフラインのコミュニケーションに費やされる時間が少なくなる傾向があり、結果として全般的にはネガティヴな効果が表れるという関係を示しています。

 デジタルミニマリズムにおいては、ソーシャルメディアは基本的に人生において必要のないものに分類され、著者自身はミレニアル世代にもかかわらず、一度も使ったことがないとのことです。このことを周囲に話すと驚かれることが多く、またそういった人々は自身がソーシャルメディアを利用することについて様々な理由をつけて正当化しようとするとのことです。そこに見られるは、少しでも何らかの利益があれば正当化できるという姿勢であり、そうした技術の利用によるコストの面はまったく無視されてしまっていると鋭く指摘します。

 ただし、ソーシャルメディアの利用が仕事上で必要な人々や、離れた家族・友人との連絡に強い価値を置く人々にも一定の理解を示し、なるべく最小限の利用ですむような実践的なアドバイスも提示されます。たとえば、ソーシャルメディアスマートフォンからはすべて削除し、必要であればPCからアクセスするようにするといったことです。つまり、望ましくない行動のコストを高めて、よいルーティンを確立するということですね。

 また、デジタル技術の片付け(digital decluttering)によってできた時間をいかに使うかという計画も大事とのことで、著者が提唱するのは「質の高い余暇」(high quality leisure)です。Deep Workでは職人的精神の価値が説かれていましたが、ここでも自分の手を動かして何かを作るタイプの余暇や、あるいはオフラインで人々と関わるようなタイプの余暇が薦められています。

 自分の例でいうとインターネット上のニュースに関しては、たしかに依存的というか、少なくとも明らかに必要と思われる水準を超えてチェックをしていたという反省があるので、最近は大学の図書館に足を運び、紙の新聞に切り替えて情報を得るようにしています(お金に余裕ができたら新聞の購読を再開したい)。

 

草薙龍瞬(2015)『反応しない練習――あらゆる悩みが消えていくブッダの超・合理的な「考え方」』

 

 

 著者は特定の宗派に属さない独立した僧侶とのことで、また、16歳で家出・放浪→独学で東大に入学→政策シンクタンク→インドで出家という、かなりの異色なキャリアに驚かされました。

 禅に関する本をいくつか読んできたこともあり、「判断をやめ、現在の心のあり方を観察する」というのは理解しやすかったです。他方で、タイトルにある「合理的」というのは最初にひっかかったところで、というのもマックス・ヴェーバーは仏教を目的合理的ではない宗教に分類していたではないか、といったことが頭によぎったのでしょう。

 著者によると、本書が扱っているのは原始仏教と呼ばれる2500年以上前にブッダがもともと説いたもっとも古い教えであり、ブッダは人間が生きる上での悩みをいかに解決するかという目的に対して、徹底的に合理的な思考をしていたとのことです。

 通俗的な仏教の理解だと、世俗的な価値の全面的な否定という印象をともすれば持ってしまいがちですが、本書ではむしろ「快」の状態はむしろ増やすべきという主張をしており、新鮮でした。また、競争社会という現実の中でいかに生きるべきかという問題に対して、競争に乗るか降りるかという二者択一ではなく、競争の中を別の価値観で生きるという選択肢があるというのは、以前に読んだ本にあった、「継続した成長」をモチベーションとする姿勢に通ずるものがあると思います。

 

水瀬ケンイチ(2017)『お金は寝かせて増やしなさい』

 

お金は寝かせて増やしなさい

お金は寝かせて増やしなさい

 

 

 投資信託の一種であるインデックス投資に関する本です。自分にとっては疎い分野で、日経新聞でもだいたい株式・金融市場に関する欄は読み飛ばしてきたので、本書はいろいろと勉強になりました。

 著者がインデックス投資を薦める理由は、それが「もっとも儲かる方法ではないけれども、手間をかけずに儲けるには最良の方法」であるためです。はじめに資産の配分比率さえ決めればあとはドルコスト平均法によって定期的に定額を積み立てるだけでよく、銘柄の選択や売買のタイミングに頭を悩ませる必要がないという、本業ではない個人投資家における大きなメリットを挙げています。

 どのインデックスファンドがよいか、口座はどこで開設するべきかという実践的な面だけではなく、インデックス投資がなぜよい結果を上げられやすいかという理論的な面も素人向けにわかりやすく解説されています。たとえば、分散投資によるリスク(平均期待リターンからのばらつき)の軽減などですが、この辺りは多少なりとも統計学の知識がある自分は頭に入りやすいところがありました。

 また、資産の構成比率を決める上で著者が強調しているのは、「期待リターンではなく、許容できる最大のリスクを基準にすること」とされます。プロスペクト理論にも触れられているように、人々は利益よりも損失により大きなウェイトを置いて評価する傾向にあるので、許容できる最悪の事態を想定することで長期的に安心した投資生活を送ることができるとのことです。ここでも、本業ではない個人投資家のためのメリットが重視されているように思います。

 

Cal Newport (2016) "Deep Work: Rules for Focused Success in a Distracted World"

 

Deep Work: Rules for Focused Success in a Distracted World

Deep Work: Rules for Focused Success in a Distracted World

 

 

 邦訳も出ているようですが、原著で読んでみました。著者はコンピュータ科学分野の先生で、まだ30代ながら多数の論文と複数の著書を出版しているという、非常にprolificな研究者のようです。

 著者の言う「深い仕事」(deep work)とは、知識労働者が従事する、認知的な負荷が大きくかつ生み出す価値が高いような仕事のことを指しています。今日の世界では、deep workの価値がますます高まっているにもかかわらず、テクノロジーの発達がもたらすdistractionによって、むしろ「浅い仕事」(shallow work)に知識労働者がどんどん時間を奪われてしまっているというのが、本書の骨子になっています。

 たとえば、著者が指摘するshallow workの典型例がeメールであり、多くの知識労働者が少なからぬ仕事時間をその確認・処理に費やしていることや、コンサルティング業務のような迅速なメール処理が非常に重要と思われている分野でさえ、すぐに返信をしなくても実際のところはそれほど問題が起きないことを示す実験結果の紹介がされます。

 後半は、いかにしてshallow workを減らし、deep workに打ち込める時間を増やすかに関するルールや実践が内容となっており、著者が重視しているのは時間のスケジューリングと、テクノロジーとのつきあい方です。著者はSNSは一切使用せず、ニュースもウェブではなく紙の新聞でチェックするという徹底ぶりを見せています。さらに本書で紹介される事例では、eメールアドレスを一切公開せず、代わりに郵便物が届く住所のみを公開するという、隠遁的(monastic)な大学教授までいるとのことです。デジタル技術とのつきあい方については、Digital Minimalismという近著でより掘り下げられているようです。

 個人的にもっとも興味深かったのは、知識労働者のdeep workを、職人芸(craftsmanship)に類比させている箇所でした。熟練した職人が、啓蒙主義以降の世界においてもなぜ自らの仕事に神聖さ(sacredness)を見出すことができるのかを論じた後に、知識労働者も自らの仕事から同様の意味を感じられると主張されます。たとえば、かつて馬車の車輪工が一つ一つの木材が異なることに個性を感じて仕事の対象と深い関係を築いたように、コンピュタープログラマーが美しいコードに芸術性を感じることがあるという事例を挙げ、高度な技能が要求される仕事には同様の深い意味を感じることができるということです。また、ここでいう意味とは、何か新たな意味を作り上げるということではなく、むしろ自らを磨くことによってすでに存在する意味を、無意味なものから区別することであり、このことによって職人の精神では個人化されたニヒリズムを避けることができると強調されています。

 

古川武士(2013)『「やめる」習慣』

 

「やめる」習慣

「やめる」習慣

 

 

 自分の時間の使い方を振り返ると、やらなくてもよいことに非常に多くの時間を割いてきているわけですね。「あのことに費やした時間をすべて仕事に割り振っていたら、何本論文が書けていただろうか…」と考えることも頻繁にあります。

 まあ、頭ではわかっていてもなかなか実行に移すのは難しいわけですね。自制心のなさ(よくないと知りつつ行為する)については、アリストテレスが2000年以上前に「アクラシア」という言葉で述べているほど根深い問題ですね。本書では、何かを決意した時とそれを破る時ではあたかもまったく違う人格になっているかのようなことを、「別人問題」という名前で紹介しており、なかなか卓抜な表現であるように思います。

 最近は、いかにしてやらなくてもよいことを避けるか、特に気を散らすきっかけ(distraction)をいかに避けるかが、あらためて自分の中でホットな課題になっており、関連する内容を勉強しています。自分にとっては明らかなdistractionになりそうなので、もともとFacebookTwitterのアカウントは持たないようにしてますが、それでもインターネットの時間の使い方に関しては反省すべき点があまりに多いですね。

 本書は実践的な志向の強い本で、習慣化のためのスケジュールの立て方であったり、モニタリングの仕方であったりなどが指南されており、自分が何となく考えてきたことと整合する点も多かったです。ただ、結局のところは行動に移せるかという覚悟の問題だなと思いました。やらなくてもよいことを決めるというのは、ピーター・ドラッカーがマネジメントの世界で言ったところの「劣後順位」(posteriority)という考え方も関係してきそうですが、ドラッカーも劣後順位をつけるのは、分析よりも勇気の問題であると述べているようですね。

 本書の読了後には、もっと学術的な内容が含まれている、Deep Workという本を読み始めています。

 

Lareau (2012) "Using the Terms Hypothesis and Variable for Qualitative Work: A Critical Reflection"

 

Lareau, Annette. 2012. "Using the Terms Hypothesis and Variable for Qualitative Work: A Critical Reflection." Journal of Marriage and Family 74(4): 671-77.

 

 Goertz & Mahoneyと同様に、Lareauも定量的・定性的研究という「2つの文化」の存在を支持する立場であるようです。ただし、Goertz & Mahoneyはどちらの研究においても、すでに因果に関わる何らかの仮説があることを前提にしているように見えるのに対して、Lareauは研究のデザインやプロセスにおける2つの文化の違いを強調し、「仮説」、「変数」という用語を定性的研究で使うことに対して疑問を述べている点が特徴的です。

 さらに、定性的研究の中でも参与観察なのか、インタビューのみでデータを集めるのか、インタビューではどの程度の人数を対象とするのかという区別を提示しており、勉強になりました。

 

  • 仮説とは、研究が始まる前に作られるものだと多くの研究者がみなしている;さらに理想的には、研究結果によって仮説を変えるべきではないと考えられている
  • 変数とは一般的に、明確に定義されかつ測定が容易であるような相互に排他的な値を持つものとみなされる
  • つまるところ、定性的研究の目標の一つは出来事の意味やそれらの相互連関の性質を示すことである;出来事の頻度ではなく、人々ができごとをどのように解釈しているかを知りたいのである
  • 定量的研究では、バイアスを減らすために構造化された質問においてばらつきを制限しようとするものの、エスノグラファーにとっては人々が研究者に対してとる異なる反応は不可避であり、かつより理解を進めるものであるとみなす
  • 定量的研究者は、変数間の関連は実証的に示されない限りは独立したものとみなすものの、定性的研究者は社会生活の要素が相互に連関したものとみなす
  • 定性的研究では、「仮説」の提示よりも「リサーチ・クエスチョン」の洗練化、「変数」よりも「日常生活における社会的プロセス」を研究すべきである
  • リサーチ・クエスチョンは特定の変数に限定されるものではなく、いくらかオープン・エンドなものであるべきである
  • 定量的研究と同様に、定性的研究においても反実仮想を考えたり、不利な証拠を探したりすることは役立つ;Unequal Childhoods(Lareau 2011)においては、もし階級というものが子育てにおいて重要でなければ、何が見出されるだろうかということをしばしば自らに問うた;言い方を変えれば、自らのデータを間違って解釈している可能性を考えたのである
  • 定性的研究者は、リサーチ・クエスチョンを研究のプロセスの中で発現させ、成長させ、発展させ、変化させるべきなのである
  • 定性的なデータ収集の方法として、参与観察によるものとインタビューのみによるものとの区別は重要である
  • 150人や200人を対象とした大規模のインタビュー調査を行う研究が増えているものの、こうした研究では筆頭研究者のデータ収集への関与が犠牲になってしまうことが多い
  • 大規模のインタビューではしばしば回答の意味よりも回答の頻度に焦点があてられており、このことは定性的研究の価値を損なうものである
  • 参与観察とインタビュー調査は非常に異なったアプローチである;インタビュー調査は人々の経験の意味を理解することに焦点をあてるものの、「エスノグラフィー的」と呼ぶのは誤りであり、参与観察における豊富で自然な観察を詳細に与えてくれるものではない
  • インタビューはまた、対象者が研究者の望んでいることを答えてしまうという社会的な望ましさ(social desirability)の問題によって、不正確なデータになることへの脆弱性がある
  • エスノグラフィーの目的は、日常生活に関する豊富できめの細かい分析を行い、理論の発展をもたらすことである;この目的のためには50以上のインタビューを行う必要はなく、そもそも50以上のインタビューの結果を提示するのは困難である
  • 定性的研究者の中には、仮説と変数という用語によって研究がより明瞭になると考える人々もいる;しかしこれらの用語によってエスノグラフィー研究が定量的研究の規範に同化してしまうという懸念がある;それは時には、科学研究の非常に狭い定義に社会科学が包囲されてしまっているかのように見えるのである