大学や研究機関での面接にどう備えるか

 

 大学や研究機関での面接にどう備えるか|エディテージ

 

  • 「交流会や食事会」というのは、欧米の大学だとよくあるらしいやつですね。日本でも実施しているところはあるのでしょうか。
  • 「面接は、質問される場であるだけでなく、あなたから自由に質問できる場でもあります」というのは、なるほどなと思いました(あくまで、こちらから質問する時間が与えられる場合にですが)。単に自分が情報を得る機会というだけではなく、うまい質問を出せれば、当該の大学や教授陣についてよく調べているという熱意や知識のシグナルになるとも言えるでしょうか。
  • 学振の面接だとあくまで自分の研究計画の範囲で予想される質問に準備をしておけばよいわけですが、大学の公募面接ではありうる質問すべてに対策を立てておくというのは現実的ではないなと思っています。無理に取り繕うよりかは、答えに自信がない場合にはわからないと答えるのが誠実かなと考えています。Rosenbaum先生が指摘するように、重要なのは情報の「量」ではなく、「質」であるはずですので。

村上春樹(2017)『騎士団長殺し 第1部 顕れるイデア編』

 

騎士団長殺し 第1部: 顕れるイデア編(上) (新潮文庫)

騎士団長殺し 第1部: 顕れるイデア編(上) (新潮文庫)

 
騎士団長殺し 第1部: 顕れるイデア編(下) (新潮文庫)

騎士団長殺し 第1部: 顕れるイデア編(下) (新潮文庫)

 

 

  • 文庫版で読みました。『1Q84』と、『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』は発売後わりとすぐに買って読んだのですが、本作は少し時間が経ってしまいました。村上春樹のエッセイはいくつか読んでいたのですが、小説は昔にくらべるとなぜか読む気が下がっていて、やや今さらという感じではあります(『羊をめぐる冒険』の英訳版を買ったものの、途中でやめてしまいました)。もっとも、いったん読み始めたら、かなりのスピードで第1部を読み終えてしまいました。
  • 1Q84』、『色彩を~』と長編では続いて三人称の視点でしたが、今回は一人称なのですね。なんとなく、一人称のほうがいつもの村上春樹の小説という感じで、しっくりとは来ます。ちなみに以前に何かの媒体で、村上春樹の作品は自身が若い頃に別の生き方をしていたらという、反実仮想的な世界観を描いているというような内容を読んだ気がするのですが、どこで読んだのか忘れてしまいました。
  • 書評もいろいろ出ているようですが、下記リンクで指摘されているように、たしかに「いかにも村上春樹的」というように、これまでの作品に共通する要素が多くあり、いつもの文体や言い回しで構成されています。一人称視点の小説では直近の長編となる『ねじまき鳥クロニクル』では、「デタッチメントからコミットメントへ」という主人公の心性の転換が起きたと評されますが、本作でもその路線は引き継がれているように思われました(第1部終わりまでの時点では)。

 

 

  • 職業としての小説家』では、長期的にヒットする作家は、新作が出たらとりあえず買うというファンを獲得しているということが書かれていました。むしろ同じような主題を繰り返しているほうが、ファンもルーティン的に読みやすいという面があるのかもしれません。
  • ただし、絵画が物語の重要な要素になるというのは、たぶん今までなかったでしょうか。クラシックやジャズ音楽は常に密接に関わってくるものの、それらを対象とするときと同様に精緻な観察力で画家の仕事が記述されていました(もちろん本職の画家が読んだら、まったく違う印象を持つのかもしれませんが)。

 

藤田一照(2018)『禅僧が教える考えすぎない生き方』

 

禅僧が教える考えすぎない生き方

禅僧が教える考えすぎない生き方

 

 

  • 以前に著者の別の本を、坐禅に興味を持ち始めた頃に読みました。前に読んだほうは対談本でしたが、こちらは一人で読者に語りかけていくスタイルになっています。
  • 前に読んだ原始仏教に基づいた本にくらべると、本書はもう少し理論的というか、いかにも「禅問答」のような難解な箇所も出てきます。しかし、全体としては予備知識を前提としない平易なつくりになっていると言えるでしょうか。
  • 本書を読んでもっとも大きな収穫だったと言えるのは、生死についての捉え方の箇所ですね。曰く、人生は「生」から始まって「死」で終わるという線分のイメージで通常捉えられがちであるけれども、仏教的な世界観では生と死は紙の表裏のように、今この瞬間も同時に存在しているというものです(「生死一如」)。そして、人間の苦しみや悩みは死を忘れた人生観を原因としており、その認識をあらためなければならないとされます。

 

 たとえば今日の午後自分が死ぬとして、死っていう鏡の前にいろんなものを置いてみる。死ぬときには何も持っていけない状況になって初めて、そこで輝くものと色あせるものが出てくるわけですね。

 

  • こういった考え方があること自体は知っていましたが、以前は「今日が人生最期の日だったら、人は享楽的に生きるだけなのではないか」とか、「明日以降が存在するから、節制や投資をするのではないか」とか思っていました。
  • しかし、死がこの瞬間にあると意識することで、過去や未来がほとんど意味をもたなくなり、禅で強調される「現在に徹底して集中する」(というか、現在しか存在しない)状態に至ることになるのだと、なんとなくわかりました。
  • ティーヴ・ジョブズも禅に影響されたことが知られていますが、スタンフォード大学の卒業式スピーチにて、死を意識した日々の生き方の大切さについて述べていましたね。

 



  • 他に気になったこととして、 仏教から派生して広まったマインドフルネスが、しばしば自我を分離・強化して捉えようとすることの問題点が挙げられていました。このような捉え方は、自己を関係論的に捉える仏教的マインドフルネスと区別し、「世俗的マインドフルネス」として批判しています。

 

斉藤章佳(2017)『男が痴漢になる理由』

 

男が痴漢になる理由

男が痴漢になる理由

 

 

 読み終えたのは少し前なのですが、内容を思い出しながら気になった点をまとめてみます。

 

  • 繰り返される痴漢行為の背景には、少なからず依存症の問題があるということで、前に読んだ薬物依存の事例と共通するものがいろいろとあったと思います。たとえば、どちらも「学習されて繰り返される、強迫的な行為」であるという点でしょうか。
  • ただし、薬物依存については使用行為を非犯罪化して治療に専念させたほうが効果があるのが明らかになっているのに対して、痴漢を含む性犯罪の場合には必ず被害者がいるので、被害者を増やさないためにまずは加害者を逮捕しなければならず、また過度に性犯罪を病理化するのは危険であると指摘されています。実際のところ、著者のクリニックにおける経験では、大半の性犯罪者が「逮捕されなければ続けていた」と口にしていることが示されています。
  • 治療の場においても、松本先生の薬物依存の現場では「安心して薬物を使用しながら通院できる環境が重要」と書かれていましたが、本書の著者は痴漢の加害者に対して、人格批判はしないものの、犯した罪や認知のゆがみに対して厳しく接しているという違いが見られました。
  • 最後のあたりでは、痴漢冤罪ばかりを強調して痴漢被害を矮小化しようとする言説の問題点が指摘されています。その指摘は正しいと思うのですが、そこで周防正行監督の『それでもボクはやってない』の影響が挙げられていることが気になりました。この映画は痴漢冤罪自体というよりかは、日本の刑事裁判や人質司法の問題点を描いたものなので、その辺りまで書かないとフェアな採り上げ方にならないのではないかと思いました(まあ、観た人の多くは痴漢冤罪の恐ろしさばかりが印象に残っているのかもしれませんが)。

 

Thelen and Kume(2006)「コーディネートされた市場経済における雇用主間の協調の問題」

 

Thelen, Kathleen and Ikuo Kume. 2006. "Coordination as a Political Problem in Coordinated Market Economies." International Journal of Policy, Administration, and Institutions 19: 11-42. 

 

 伝統的な日本の経営慣行のこれらの2本柱は企業レベルで運営されているため、労使関係は資本主義の多様性の研究で強調されているような種類の雇用主間のコーディネーションには基礎を置いていないように見えるかもしれない。しかしながら、年功賃金と長期雇用慣行は雇用主どうしが(少なくとも大企業の雇用主どうしが)協調している場合にのみ維持可能なのである。たとえば、雇用主が新入社員に対して高い賃金を設定することをお互いに控えることによってのみ、年功賃金システムは存続可能である。言いかえれば、すべての企業が新入社員を相対的に低賃金で雇い、その企業の中でキャリアを経るにつれて給与を上昇させていくことに合意していなければならない。[28] 

 

 この論文の論点は、スウェーデン、ドイツ、日本における雇用主間のコーディネーションの近年の変化を探求するというものであった。それぞれの事例において、現代の市場の発展はある面では特定の(伝統的な)労使関係制度における雇用主の利害を強化していると資本主義の多様性の研究が指摘しているのは、まったく正しい。しかしながら、これらの研究がしばしば不十分であるのは、ある国の文脈の中における雇用主を、根本的に利害が同質的であるとみなしていることであり、そしてその結果として、企業が伝統的な制度へのコミットメントを強化している兆候はすべて制度の安定化への動きであるとみなしてしまっていることである。これに対して本論文で示されたのは、特定の産業・特定の企業における伝統的な制度の中での協調の強化が、実際には他の産業・企業が協調していくことを困難にしているということであり、そのため資本主義の多様性研究がシステムを維持する力とみなしているのとまったく同じ力によって、システムの不安定化が起きているのである。[35]

 

神島裕子(2018)『正義とは何か――現代政治哲学の6つの視点』

 

正義とは何か-現代政治哲学の6つの視点 (中公新書)

正義とは何か-現代政治哲学の6つの視点 (中公新書)

 

 

序章 哲学と民主主義――古代ギリシア世界から

第1章 「公正としての正義」――リベラリズム

第2章 小さな政府の思想――リバタリアニズム

第3章 共同体における善い生――コミュニタリアニズム

第4章 人間にとっての正義――フェミニズム

第5章 グローバルな問題は私たちの課題――コスモポリタニズム

第6章 国民国家と正義――ナショナリズム

終章 社会に生きる哲学者――これからの世界へ向けて

 

  • 序章は古代ギリシアの思想から始まるのですが、1章でロールズの正義論を扱った後で、2章ではロックやアダム・スミスの古典リベラリズムという形で歴史的には遡る形になっているのが面白いなと思いました。確かにロールズを参照点として根源となる思想を振り返るほうが理解しやすいという面がありそうです。本書は著者の大学での授業に基づいているということですが、授業の構成としても歴史的な順序にこだわる必要はないよな、と思ったしだいです。
  • ロールズ以降の正義論の潮流、特にコスモポリタニズム(トマス・ポッゲなど)については基本的なことからわかっていなかったので勉強になりました。『政治的リベラリズム』など後期ロールズの思想とも、要所で関連づけられているので理解が深まりやすかったように思います。
  • 井上達夫先生は『政治的リベラリズム』でロールズの正義理論は大きく後退してしまったという評価をされているようですが、これは政治的哲学者の中で一般的な評価なのかどうか気になっています。
  • アダム・スウィフトは教育機会の均等に関する論文をいくつか読んだことがあるのですが、「機会の平等の観点から、親による子どもへの本の読み聞かせは道徳的に許されるか」という議論が本書で採り上げられていて、一般的な正義論の中でも影響があるのだなと知りました。
  • リバタリアニズムについては、渡辺靖先生の著書を以前に読みましたが、こちらは現代アメリカの複雑な政治・社会状況の中で捉えることが主眼に置かれていた一方で、本書では古典的リベラリズムの延長に位置づけるということで、思想的なバックグラウンドという面ではより理解しやすくなっていると思いました。
  • フェミニズムの章で指摘されている、「ロールズは家族の問題に関してはかなりコミュニタリアンに接近している」、つまり「ロールズにとっては家族は社会が介入すべきではない特別な共同体である」というのは、重要な指摘であるように感じました。ただし、本書の記述だけからだと、ロールズが家族内では財が公正に行き渡るだろうと考えていたのか、あるいは仮に不公正な分配が行われていたとしても社会が介入すべきではないという立場であったのかが、わかりませんでした。

菊池正史(2018)『「影の総理」と呼ばれた男――野中広務 権力闘争の論理』

 

 

 野中の政治を「弱者に寄り添う政治」と評する人がいるが、私は「寄り添う」という、どこか偽善的な生ぬるさのある言葉は、野中にふさわしくないと思う。野中の弱者への関わり方は、言葉だけの同情や、親切ごかしの口利きといった、ありふれた政治のレベルではなかった。それはまさに、「弱者と共に動く」政治だったと思う。 

 フリーライター辛淑玉は野中の政治を「平和のための談合」と評した。野中は二度と戦争をさせないために、権謀術数をめぐらした。その矛盾こそが、「平和であり、そして反戦であり、そして国民を中産階級の国民にしていく」ことを保守し続けるための、野中なりのリアリズムだったのではないか。

 

 昨年の1月に亡くなられた野中広務官房長官を採り上げた本です。著者のテレビ局政治部記者としての経験に基づき、野中氏との個人的なエピソードも交えつつ、その人生が振り返られています。また野中氏と関連して、戦後保守と戦争・平和の関係、小泉政権までの自民党の歴史・権力闘争などのテーマも描かれています。著者自身もあとがきで少し触れていますが、「安倍一強」の自民党と対比させつつ読むと、現代の政治で失われてしまったものについて理解が深まるように思います。

 1章では野中氏の戦争経験が描かれており、やはりこういった体験から紡がれる言葉には迫力を感じます。もう今の時代にはこのような政治家は出てこないのだろうかと思うと、なんとも残念な気持ちになります。

 政治制度に関する記述では、中選挙区制・派閥・談合型政治の功罪などについて関心を持ちながら読みました。素人的には、本来は政権交代を可能にしやすくするための小選挙区制の下で第二次安倍政権のような長期政権が維持されているのをみると、その弊害について少し考えてしまいます。また、小泉元首相の強権的な手法に反対して政界を引退したものの、その後の「安倍一強」の基礎を築いたのは、小渕内閣において公明党との連立を決断した野中に他ならない、という著者の指摘は皮肉ながら興味深いものでした。