ウイダー リカバリーパワープロテイン

 

 

 最近、ランニング後に飲んでいます。炭水化物:タンパク質=3:1というのがエネルギー補給によいらしく、同じメーカーから出ている、「マッスルフィット」や「ウェイトダウン」にくらべると炭水化物の割合が大きくなっているようです。

 ランニング後はエネルギー補給の必要を感じても、胃の調子的にあまり食べる気にはなれないときがあるので、そういった意味で本製品は摂取しやすくよい感じです。

 

Eison(1990)「教室で自信を持つための新米教師への10の格言」

Eison, J. 1990. "Confidence in the Classroom: Ten Maxims for New Teachers." College Teaching 38 (1): 21-25.

  1. 自信を感じるためには、自信を持って行動すること(To Feel Confident, Act Confident)
  2. なぜ自分が教えたいのか観察すること(Examine Why You Want to Teach)
  3. 効果的な教育に関連する特徴を学ぶこと(Learn the Characteristics Associated with Effective Teaching)
  4. 各回の授業に具体的な教育目的・目標を持って臨むこと(Enter Each Class with Specific Educational Goals and Objectives)
  5. 少なく教えるほどよい(Teach Less, Better)
  6. アクティブ・ラーニングの戦略を定期的に用いること(Use Active Learning Strategies Regularly)
  7. 完璧主義者にはならないこと(Don't be a Perfectionist)
  8. 何かを知らないときには落ち着いてそれを認めること(Be Relaxed about Admitting It When You Don't Know Something)
  9. 学生・同僚からの反応を求めること(Ask for Response from Students and Colleagues)
  10. 熱意と活力が勝利をもたらすと心に留めること(Remember that Enthusiasm and Energy Can Carry the Day)

 

Rivera(2012)文化的マッチングとしての採用

 

Rivera, Lauren A. 2012. "Hiring as Cultural Matching: The Case of Elite Professional Service Firms." American Sociological Review 77(6): 999-1022.

 

 人的資本、社会関係資本、そして差別は採用において重要な役割を担っているものの、文化的シグナルもまた雇用主の選択に影響している。分析サンプルにおける評価者たちは、同僚として有能であるだけではなく、楽しい遊び仲間でもあるような人々を新たな採用において求めていた。つまり、より認知的・技術的に優れたスキルを持った候補者を選ぶことよりも、快適さ、妥当性、刺激性といった個人的な感情をしばしば優先していたのであった。社会学者による雇用主の選別行動の典型的な描写よりも、友人や恋愛相手を選ぶ際に多くの点で似たやり方で採用が行われていた。単なる誤差や差別とは到底異なり、従来的な採用の社会学モデルの残差項の中にも、雇用主の積極的な文化的役割がまた含まれているということを、分析結果は示唆している。[1018] 

 

高田明和(2014)『1日10分の坐禅入門――医者がすすめる禅のこころ』

 

 

 もう一つ感じたことがあります。結跏趺坐をすると、まるで宇宙に堂々と一人座るというような心境になるのです。自然と卑屈な気持ち、劣等の感じがなくなり、自分は堂々と生きているという自覚がみなぎってくるのです。これで私は姿勢が如何に重要かを知ったのです。

立っていると眠れないのは背骨、腰、足からの刺激が脳に伝えられ、覚醒させるからです。一方横になると眠れるのはこれらの筋肉、腱の緊張が緩み、刺激が脳に行かなくなるからです。結跏趺坐の場合には、足、腰の腱が引っ張られ、さらに背骨を正すことで背骨の周りの筋肉、腱が緊張し、その刺激が脳を覚醒させるのです。

 

  • 半跏趺坐にくらべて結跏趺坐で坐っていると、明らかに頭がよりクリアになると感じるのですが、足腰の腱の伸びによるものということで、なるほどなと思いました。
  • 「好事も無きに如かず」というのは、含蓄のある言葉ですね。よい物事はさらにそれを求める欲望をかきたてたり、あるいはそれを失う心配を引き起こしたりするから、むしろ無いほうが勝っているという意味ですね。心をなるべくニュートラルに保ち、執着を持たないようにすることを強調する、仏教のらしさが表れた言葉だと思います。

 

大学や研究機関での面接にどう備えるか

 

 大学や研究機関での面接にどう備えるか|エディテージ

 

  • 「交流会や食事会」というのは、欧米の大学だとよくあるらしいやつですね。日本でも実施しているところはあるのでしょうか。
  • 「面接は、質問される場であるだけでなく、あなたから自由に質問できる場でもあります」というのは、なるほどなと思いました(あくまで、こちらから質問する時間が与えられる場合にですが)。単に自分が情報を得る機会というだけではなく、うまい質問を出せれば、当該の大学や教授陣についてよく調べているという熱意や知識のシグナルになるとも言えるでしょうか。
  • 学振の面接だとあくまで自分の研究計画の範囲で予想される質問に準備をしておけばよいわけですが、大学の公募面接ではありうる質問すべてに対策を立てておくというのは現実的ではないなと思っています。無理に取り繕うよりかは、答えに自信がない場合にはわからないと答えるのが誠実かなと考えています。Rosenbaum先生が指摘するように、重要なのは情報の「量」ではなく、「質」であるはずですので。

村上春樹(2017)『騎士団長殺し 第1部 顕れるイデア編』

 

騎士団長殺し 第1部: 顕れるイデア編(上) (新潮文庫)

騎士団長殺し 第1部: 顕れるイデア編(上) (新潮文庫)

 
騎士団長殺し 第1部: 顕れるイデア編(下) (新潮文庫)

騎士団長殺し 第1部: 顕れるイデア編(下) (新潮文庫)

 

 

  • 文庫版で読みました。『1Q84』と、『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』は発売後わりとすぐに買って読んだのですが、本作は少し時間が経ってしまいました。村上春樹のエッセイはいくつか読んでいたのですが、小説は昔にくらべるとなぜか読む気が下がっていて、やや今さらという感じではあります(『羊をめぐる冒険』の英訳版を買ったものの、途中でやめてしまいました)。もっとも、いったん読み始めたら、かなりのスピードで第1部を読み終えてしまいました。
  • 1Q84』、『色彩を~』と長編では続いて三人称の視点でしたが、今回は一人称なのですね。なんとなく、一人称のほうがいつもの村上春樹の小説という感じで、しっくりとは来ます。ちなみに以前に何かの媒体で、村上春樹の作品は自身が若い頃に別の生き方をしていたらという、反実仮想的な世界観を描いているというような内容を読んだ気がするのですが、どこで読んだのか忘れてしまいました。
  • 書評もいろいろ出ているようですが、下記リンクで指摘されているように、たしかに「いかにも村上春樹的」というように、これまでの作品に共通する要素が多くあり、いつもの文体や言い回しで構成されています。一人称視点の小説では直近の長編となる『ねじまき鳥クロニクル』では、「デタッチメントからコミットメントへ」という主人公の心性の転換が起きたと評されますが、本作でもその路線は引き継がれているように思われました(第1部終わりまでの時点では)。

 

 

  • 職業としての小説家』では、長期的にヒットする作家は、新作が出たらとりあえず買うというファンを獲得しているということが書かれていました。むしろ同じような主題を繰り返しているほうが、ファンもルーティン的に読みやすいという面があるのかもしれません。
  • ただし、絵画が物語の重要な要素になるというのは、たぶん今までなかったでしょうか。クラシックやジャズ音楽は常に密接に関わってくるものの、それらを対象とするときと同様に精緻な観察力で画家の仕事が記述されていました(もちろん本職の画家が読んだら、まったく違う印象を持つのかもしれませんが)。

 

藤田一照(2018)『禅僧が教える考えすぎない生き方』

 

禅僧が教える考えすぎない生き方

禅僧が教える考えすぎない生き方

 

 

  • 以前に著者の別の本を、坐禅に興味を持ち始めた頃に読みました。前に読んだほうは対談本でしたが、こちらは一人で読者に語りかけていくスタイルになっています。
  • 前に読んだ原始仏教に基づいた本にくらべると、本書はもう少し理論的というか、いかにも「禅問答」のような難解な箇所も出てきます。しかし、全体としては予備知識を前提としない平易なつくりになっていると言えるでしょうか。
  • 本書を読んでもっとも大きな収穫だったと言えるのは、生死についての捉え方の箇所ですね。曰く、人生は「生」から始まって「死」で終わるという線分のイメージで通常捉えられがちであるけれども、仏教的な世界観では生と死は紙の表裏のように、今この瞬間も同時に存在しているというものです(「生死一如」)。そして、人間の苦しみや悩みは死を忘れた人生観を原因としており、その認識をあらためなければならないとされます。

 

 たとえば今日の午後自分が死ぬとして、死っていう鏡の前にいろんなものを置いてみる。死ぬときには何も持っていけない状況になって初めて、そこで輝くものと色あせるものが出てくるわけですね。

 

  • こういった考え方があること自体は知っていましたが、以前は「今日が人生最期の日だったら、人は享楽的に生きるだけなのではないか」とか、「明日以降が存在するから、節制や投資をするのではないか」とか思っていました。
  • しかし、死がこの瞬間にあると意識することで、過去や未来がほとんど意味をもたなくなり、禅で強調される「現在に徹底して集中する」(というか、現在しか存在しない)状態に至ることになるのだと、なんとなくわかりました。
  • ティーヴ・ジョブズも禅に影響されたことが知られていますが、スタンフォード大学の卒業式スピーチにて、死を意識した日々の生き方の大切さについて述べていましたね。

 



  • 他に気になったこととして、 仏教から派生して広まったマインドフルネスが、しばしば自我を分離・強化して捉えようとすることの問題点が挙げられていました。このような捉え方は、自己を関係論的に捉える仏教的マインドフルネスと区別し、「世俗的マインドフルネス」として批判しています。